*無償の愛/天上の恋*


 理事長就任式を終えた翌日も、朝からかなり忙しかった。
 先ずは、みなとみらいホールに出向き、香穂子のアンサンブルコンサートの会場を確保する。
 より良い音響の下で、コンサートをして欲しかったからだ。
 学院に入ると、昼休み前に都築を呼び付けて、香穂子のコンミス試験について打ち合わせをする。
 分刻みのスケジュールだが、決して嫌じゃない。
 香穂子が無事にコンミスになれれば、またステップアップが出来る筈だからだ。
 素晴らしきヴァイオリニストになれる素質は誰よりも持っている。恐らくは吉羅の姉よりも。
 だからこそ、香穂子をもっと高みまで押し上げてやりたかった。
「理事長、日野さんのことになると、随分と熱心になるんですね」
 都築は微笑ましいとばかりに、穏やかな笑みを浮かべている。
 吉羅は、香穂子への想いを見透かされたような気がして、わざとクールに振る舞う。
「学院のためだ」
「それは日野さんのためにもなりますから。彼女はそこまでしたくなるほどに、豊かで魅力的な才能を持っていますから」
 都築はいつものように冷静な声で言うと、資料に目を通した。
「日野さんは、他のコンクールのメンバーよりも圧倒的に音楽の知識が不足しています。そのあたりをちゃんと見てあげなければなりません。私も、出来る限りのサポートをしますが、理事長も彼女に協力をお願いします」
 都築は香穂子にかなりの興味を持ってくれ、サポートを惜しまないでくれているのが、喜ばしい。
 吉羅もかつては音楽の道に進もうとはしたが、自らその選択を壊してしまった。だから香穂子をサポートしてやれるだけの知識はないから、それを補ってくれている都築の存在は有り難い。
「だけど、このコンミス試験の条件はかなり厳しいですね。日野さんにはかなり頑張って貰わないと」
 吉羅は自ら作った香穂子の課題の資料に目を通しながら、甘やかすわけにはいかないと思う。
「日野君ならば乗り越えることが出来るはずだ。いや乗り越えなければならないだろう…」
 だからこそ香穂子に試練を与える。それを乗り越えていけば、香穂子は立派なヴァイオリニストに成長してくれるだろうから。
 吉羅は香穂子が起こす奇蹟をこの目で確かめたかった。奇蹟な音楽を信じたかった。
 吉羅は香穂子が昨日奏でてくれた“優しい愛”を思い出して、柔らかな笑みをフッと浮かべた。
「信じていらっしゃるんですね、彼女を」
 都築は何処か羨ましいように微笑む。
「信じてやらなければね。それに、信じてやるからこそ、奇蹟は生まれるものではないのかね」
 吉羅はいつも通りに表情を崩さずに呟いたが、その気持ちは都築には伝わっているようだった。指揮を志す以上、感情に敏感でなければならないのだろう。
「そうですね。私も彼女が必ず上手くやると信じていますから」
 都築は何処か確信を持っているかのように微笑んだ。
「昼休みに日野君に説明を行なうから、君も来てくれたまえ」
「解りました」
 都築は椅子から立ち上がると、ちらりと吉羅を見つめる。
「私は理事長が羨ましいです。無償の愛を捧げられる相手に出会われたのですから」
「都築君…」
 吉羅はほんの一瞬、顔色を変える。
 無償の愛。いや、愛とは元々そのようなものなのではないだろうか。
 相手に見返りを求めることなどしない。
 吉羅も、香穂子からは何もいらなかった。
 ただ、本当に欲しいもの…。
 それは…。
「理事長」
 都築の凛々しい声に、吉羅は自分を取り戻す。
「高等部の昼休みの後半になったら、また来ます」
「ああ…」
 都築は丁寧に吉羅に頭を下げると、静かに理事長室を立ち去る。ドアが閉じる音を聞きながら、吉羅は溜め息を吐いた。
 香穂子に対して求めているのは、かつて姉と自分自身が夢見ていた、人々を感動させるヴァイオリニストになること。
 忘れ去った、いや、忘れようと努力をしていた夢を、いやがおうにも思い出させた少女。
 音楽に対する真直ぐな情熱、ヴァイオリンを本当に楽しそうに演奏をする笑顔。なのに普段はお節介でおっちょこちょいで元気いっぱいの大食い娘。
 吉羅は、香穂子を思い出すと、思わずくすりと笑わずにはいられなかった。
 理事長室の窓の外から、賑やかな生徒たちの幸せそうな声が響いている。
 かつての自分も、金澤や姉とつるんで賑やかな声を上げていた。
 終わりなんて考えられなかったあの頃。毎日を当たり前に過ごして、それが掛け替えのない日々だということには、後から気付いた。
 人間は当たり前のようにそばにいる時にはその有難みに気付くことはなく、なくした時に初めて大切さに気付く。全く愚かな動物だ。
 今は、この掛け替えない時間を守るために奔走しているが、それは苦ではなくなっている。
 窓を開けると、見慣れた生徒が体操服姿で走っているのが見えた。
 香穂子だ。
「日野ちゃん! 凄く急いでるよねー! どうしたのよっ!」
「気合い入れてんのっ。だってさ、カツサンドとコロッケパンとやきそばパンをゲットしたいんだもんー!」
「昼休みまでまだまだなのに、凄い気合いだよー」
 香穂子の無邪気な姿を見ていると、不思議と癒される。
 吉羅は香穂子の姿を見送りながら、口角を上げた。

 昼休みも後半に入り、香穂子が理事長室にやってきた。
「吉羅理事長、日野です」
「入りたまえ」
 吉羅の声を合図に、香穂子が「失礼します」と頭を下げて入ってくる。
 薔薇色に頬を染めているところを見ると、元気そうで何よりだと思う。
「昨日の疲れはもう残ってはいないかね」
「はい、大丈夫です! 今日も一杯パンを食べたぐらいですから!」
「それは結構」
 香穂子が明るく屈託なく答えたものだから、吉羅は安堵して頷く。
「日野君、早速だが、新たに加わったコンミス試験の概要だ。目を通してくれたまえ。そこにあるのは、最低限クリアーして貰いたい事項だ。それ以上が出来て当然だと言える。日野君、課題以上の成果を期待する」
 吉羅は冷たいまなざしで淡々と言いながら、香穂子に課題のシートを手渡した。それを受け取った香穂子は見るなり、かなり厳しい表情になる。だが、何処にも弱音は感じなかった。
「解りました、頑張ります。それと理事長、コンサートホールの手配有り難うございます。皆さんに楽しんで貰えるような音楽を頑張って作ります」
 にっこりと笑いながらも力強く言う香穂子に、吉羅は些か嬉しい喜びを感じていた。
 香穂子にとって、コンミス試験は二の次なのかもしれない。それよりもこころに響く音楽を奏でるほうが彼女にとっては重要なのだということを、吉羅は改めて感じた。
 こんなところまで姉の美夜に似ている。
 あのひともコンクールは二の次で、とにかく人前でヴァイオリンを演奏することが楽しみだったのだ。
 吉羅はフッと静かに微笑むと、直ぐに香穂をには冷たく厳しい視線を送った。
「日野君、君は星奏学院の代表だ。しっかりと頑張ってくれたまえ」
「はい。頑張ります」
 香穂子は直角に頭を下げると、決意を漲らせた強い瞳になった。
「以上だ。しっかり練習に励むように。次の考査は、月曜日だ」
「はい。有り難うございました」
 香穂子はもう一度頭を下げると、吉羅の前を辞した。
「都築君、君も下がって構わない」
「はい。失礼致します」
 ふたりが理事長室から立ち去った後、吉羅は天井を見上げる。
 香穂子が上手くコンミス試験の課題をクリアー出来るようにと祈らずにはいられない。
「損な役割だな…」
 吉羅はただポツリとひとりごちた。



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