*無償の愛/天上の恋*


 コンミス試験の厳しい課題をクリアーするためにも、練習をしなければならない。
 練習室を予約するものの、音楽科も学年末考査や入試を控えているせいか、かなり混合っている。
 結局、香穂子が練習室の予約を取れたのは、ギリギリの時間だった。
「…仕方がないよね。音楽科優先だからな…」
 香穂子は気を取り直して、解放感が溢れる外で演奏することにした。
 つい行ってしまうのは理事長室の窓の下。
 ここが香穂子にとっては最高の場所だ。
 香穂子はヴァイオリンを構えると、ラフマニノフの“ラプソディ”の演奏を始めた。
 香穂子が大好きなどこかロマンチックなメロディで、弾いていると楽しくなる。
 香穂子はとても清々しい気分でヴァイオリンを奏でる。
 やはりヴァイオリンを奏でるのは、何よりも大好きだ。
 気持ちが良くて、楽しくて。何の見返りなんてなくても、ただ弾くだけで楽しかった。
 夕暮れ時になり、ようやく練習室の順番が回ってくる。
「頑張るぞ!」
 香穂子は張り切って練習室に向かった。
 練習室の前で、音楽科でも仲が良い森と遭遇する。天羽と三人でよく出かけたりする、香穂子の大切な友人のひとりだった。
「あれ、香穂。今から練習?」
「うん。予約したら、今の時間になっちゃったんだ」
「そうなんだ」
 ピアノ伴奏をして貰って、一度練習をしたいと思い、香穂子は思い切って口を開いた。
「真奈美、今からピアノ伴奏、一回だけで良いから頼めないかな?」
「ごめんっ! これからコンサートに行くから急いで帰らないといけないんだ」
 森は本当にすまなさそうに言う。きっと年上の素敵な彼と一緒に行くのだろう。何だか羨ましかった。
「埋め合わせはするからね」
「うん。有り難う。仕方がないよね、それだと」
「ごめんね、じゃあ」
 森はかなり急いでいるように、バタバタと走っていってしまう。
 楽譜を練習はしているが、ピアノ伴奏をして貰い、演奏の感覚や深みを感じたかった。
 また別の日に、森に頼もうとあきらめ、香穂子は練習室に入る。
 その様子を、吉羅が静かに見ていた。

 香穂子は譜面を広げて、ミスしがちな場所をチェックしながら、練習をする。
 ぶつぶつひとりごちながら譜面と格闘していると、不意に練習室の扉が開いた。
 ドキリとして振り返ると、そこには吉羅が立っている。
「吉羅理事長!?」
「失礼。ノックをしたのだが、君の返事がなかったものだから、勝手に邪魔をさせて貰ったよ」
「あ、はいっ」
 クールな吉羅の横顔を見ていると、ドキドキし過ぎて緊張してしまう。
 吉羅を見ているだけで躰が熱くなり、違った意味で緊張してしまう。
 顔がほんのりと紅くなり、喉がからからになる。
 吉羅が持っている威圧的な緊張感とはまた別のものだ。
「ピアノ伴奏が必要なようだね」
「あ、そうなんです。少し感覚を見ておきたくて」
「だったら、私が伴奏しよう」
 吉羅はピアノの前に座ると、鍵盤の調律具合を確かめる。
 ピアノの前に座る吉羅の横顔は、何処かいきいきとしていて、楽しそうにピアノに指を滑らせている。
 音楽をあんなにも拒絶していたというのに、こうしてピアノに触れている姿を見ると、本当に音楽が好きなのだと感じずにはいられない。
「曲は…ラフマニノフの“ラプソディ”だったね?」
「よくご存じですね」
「理事長室の下で、あんなにも練習していたら、いやがおうでも解るよ」
「そ、そうですよね」
 またドキドキしてきた。
 多忙な吉羅が仕事の合間に聴いてくれているのが嬉しくてたまらない。だが同時に、吉羅の仕事の邪魔になっているのではないかと思う。
「…お仕事中、じゃ、邪魔になってはいないですよね?」
 香穂子がおずおずと訊くと、吉羅は薄く笑う。
「さあね。まあ、たまには息抜きになるけれどね」
 吉羅はピアノの調子を見ながら、何処か機嫌良さそうに呟く。
「楽譜を見せてくれないか?」
「あ、はい」
 香穂子が楽譜を差し出すと、吉羅は初見を始める。馴染みの曲であるせいか、直ぐに譜面を読み終わる。
 その横顔を見ていると、こころから音楽を愛したいのに愛せなかった葛藤が、垣間見られた。
「有り難う」
 楽譜を差し出され、香穂子はそれを慌てて受け取った。
「こちらこそ有り難うございます」
 香穂子が深々と頭を下げたが、吉羅はあいもかわらず人間的な暖かみのない冷たい表情のままだ。
 吉羅は素早く腕時計で時間を確認する。
「始めよう。時間を無駄にしてはいけない」
「はい」
 香穂子は背筋をいつもよりも一際伸ばすと、緊張を吐き出すように呼吸を繰り返す。
 吉羅が折角伴奏をしてくれるのだから、失敗は出来ない。
 なのに緊張し過ぎてしまい、泣きそうになるぐらいに弓を持つ指先が震えた。
 背中に緊張の汗が流れる。
 厳しい緊迫感に、香穂子の鼓動はなかなか上手く整わなかった。
「日野君、始めたまえ」
「はいっ!」
 始めたまえと言われても緊張し過ぎて、上手く始められない。
 下手くそだと言われたらどうしようだとか、どうでも良いことを考えてしまっていた。
「日野君、緊張しているのか?」
 吉羅が香穂子のガチガチな雰囲気を感じ取り、顔を上げる。
「あ、あの、は、始めますっ!」
「緊張しなくて良いから。これはあくまで練習に過ぎない。これで君の評価が決まるわけではないからね」
 吉羅はあくまで事務的に言うと、再び鍵盤に指を滑らせる。
「やるのか、やらないのか、どちらかね?」
「や、やりますっ」
 香穂子は覚悟を決めて腹を括ると、ヴァイオリンを奏で始めた。
 音を出した瞬間、緊張など何処かに行ってしまい、代わりに爽快感だけが残る。
 それに吉羅のピアノ伴奏はとても弾きやすい。
 土浦や森の伴奏も弾きやすいと思っていたが、それよりも吉羅の伴奏は弾きやすい。恐らくは元ヴァイオリニストだからこそなのだろう。
 上手く香穂子の癖を取り入れて、伴奏してくれる。
 よく香穂子の演奏を聴いていなければ弾けない伴奏だった。
 幸せな気分でヴァイオリンを弾ける。
 しっくりと音に集中することが出来る伴奏だった。
 もう少し弾いてみたい。
 こころが高まったところで、曲は終わってしまった。
 吉羅は、演奏を終えるなり、直ぐに香穂子を見た。
「なかなかだった。だが、技術的にはまだまだな部分がある。細かいところは、音楽科のヴァイオリン教師に訊くと良い」
「有り難うございます! あ、あの、ものすごくヴァイオリンが弾きやすかったですっ! 有り難うございました!」
 香穂子は腰を直角に曲げて頭を下げる。
 本当に演奏しやすかった。同時に、吉羅が音楽科に在籍していたことを改めて感じた。
「日野君、ヴァイオリンを見せたまえ」
「は、はいっ」
 香穂子がヴァイオリンを差し出すと、吉羅は弦をじっくりと見る。
「弦を張り替えたほうが良い。随分とくたびれて見える」
「は、はい」
 弦を替えるといっても、そう頻繁には替えられない。
 香穂子は溜め息を吐いて弦を見た。
 練習するが余りに、かなりくたびれている。もう切れるのは時間の問題だろう。
「日野君、ヴァイオリンの弦を替える良い職人がいる。紹介するから、着いて来なさい」
「あ、は、はいっ!」
 やはり吉羅もヴァイオリニストだったのだと、香穂子は改めて思う。
 音楽科の生徒であった頃は、ヴァイオリンのメンテナンスをきちんとするための店を幾つか使っていたのだろう。
「日野君、行くよ」
「は、はいっ!」
 香穂子は鞄とヴァイオリンケースを片手に、吉羅の後に着いていった。



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