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吉羅は学院の職員用駐車場まで歩いて行き、香穂子はその後を着いていく。 「日野君、乗りたまえ」 「は、はいっ!」 助手席のドアを開けられて、香穂子は緊張する。 吉羅の車に乗るのは初めてではないが、やはり妙に緊張してしまうのだ。 香穂子が助手席に乗り込みシートベルトをすると、吉羅は直ぐに車を発進させる。 「かなりの腕を持った職人だよ。君がいくら乱暴にヴァイオリンを弾いても、きちんとメンテナンスをしてくれるから、安心して構わないよ」 「はい」 吉羅はどこかご機嫌で、さり気なく失礼なことを言うが、香穂子はそんなことは気にしなかった。 「理事長、ピアノがお上手なんですね」 「人並みだよ。ヴァイオリンを志していた以上、ピアノぐらいは弾けなければならないと、よく練習していたよ。私が一番苦手な楽器ではあったがね」 吉羅はいつものような人を寄せ付けない雰囲気はなく、何処か機嫌が良さそうだ。 「…やっぱり、これから音楽を続けていくなら、ピアノはやらなければならないですよね…」 「そうだね。君がこれから音楽をやるなら、ピアノは必要になるね。ピアノはオーケストラと同じ音域を表現出来る楽器だから、参考になるだろう。大学の指揮科の生徒は、ピアノの専門にしていた者も少なくないのは、そのあたりにあるのかもしれないけれどね。後は、ピアノはオケに入れないから、そのあたりの憧れはあるかもしれないがね」 「そういえば、都築さんもそうですし、指揮科を目指している土浦君もそうですね」 香穂子は素直に関心しながら頷く。同時に音楽の知識が殆どない自分が、恥かしいとすら思った。 「日野君、君は幼い頃にピアノを習ったりはしなかったのか?」 「一度だけ、ピアノ教室に遊びに行ったことがあるんですが、直ぐに挫折をしてしまいました」 香穂子は苦笑いしながら、小さな頃のことを思い出す。あの頃は椅子に座って楽器を弾くなんて考えられなかった。 「…だったらピアノは全く?」 「猫踏んじゃったなら、ちょっとだけ弾けるんですけどね。友達が弾いているのを聴いて真似をしただけですから、ちゃんとしたものじゃないんですよ」 猫踏んじゃったしか弾けないなんて、本当に恥かしい告白だと思う。香穂子が鼻を紅くしてはにかむと、吉羅は柔らかく微笑んだ。 「では、コンミスを無事に務め終わったら、ピアノの練習を少し始めると良い」 「そうですね。柚木先輩や土浦君が、ピアノを少しぐらいなら見てくれると言ってくれていますし」 香穂子が何気なく言うと、吉羅の表情は途端に厳しくなった。 「彼等の時間が削れてしまう。君を優先してばかりはいられないだろう」 吉羅の冷静で何処か冷酷な一言に、香穂子はハッとさせられる。 コンクールのメンバーだからといって、安易に甘える訳にはいかないのだ。 「…そうですね。…失念していました。レッスン先、探してみます」 香穂子はしゅんと肩を落とし、自分の気遣いの足りなさに思わず溜め息を吐いていた。 「だったら、私が週に二回ほど、君のピアノを見ようか?」 「え?」 「ピアノが本職ではなかった私だが、基本は教えられる」 香穂子は驚くと同時に、喜びが込み上げて来る。吉羅に教えて貰える。その事実が香穂子のこころをときめかせた。 「良いんですかっ!?」 「ああ。私で良ければね。これから向かう楽器店のレッスン室を使うか、うちの実家でも構わないがね」 「凄く、凄く嬉しいです。本当に有り難うございますっ!」 こころと指先が震えてどうすることも出来ない。こんなに切なくて痛い甘さの含んだ感情は、今まで知らない。 「…だったらレッスンをしようか。ただし、コンミスをきちんと務められたらね」 吉羅はまるで少年のように微笑んでいる。眩しいほどに素敵な微笑みだった。 「理事長は、ピアノの伴奏が凄く上手いですよね。ものすごく弾きやすかったです。…真奈美…森さんの演奏も凄く弾きやすいし、土浦君も私に合わせてくれるから、気持ち良く弾けるんですけれど…。理事長のは…なんていうか、弾きやすいリズムで、しかも気持ちが良いんです」 香穂子が一生懸命拙い言葉で伝えると、吉羅は口角を上げた。 「私は、君のタイプの弾き手の伴奏を、昔、散々やったからね。だから解るんだよ。どういう演奏をするのか。私も、以前はヴァイオリンを弾いていたからね。だから、何となく解る」 吉羅は温かなノスタルジーを滲ませるような声で呟くと、瞳を懐かしそうにスッと細めた。 吉羅の伴奏の音は本当に温かく澄んでいた。相手のためだけに弾いているこころが籠った音だ。ピアノの音色がああならば、ヴァイオリンはどのような音色を持っていたのだろうか。 香穂子は吉羅の音色が聴きたくてしょうがなくなる。 「理事長はどのようなヴァイオリニストだったんですか?」 「私? 私はヴァイオリニストなんて言えるほどの腕はなかったよ。…もう過去の話だ。私はヴァイオリンは弾かないよ。…もう二度とね…」 吉羅は何処か寂しそうな声で言うと、黙り込んでしまった。 これ以上詮索するなとばかりに、冷たい雰囲気を醸し出す。 香穂子は吉羅を見つめながら、重く切ないのに、どこか幸せな、不思議な感覚を抱いていた。 楽器店まで車を走らせながら、吉羅はどうして香穂子にピアノを教えるなどと、咄嗟に言ってしまったのかを、ずっと考えていた。 柚木と土浦の名前を出された瞬間、躰の奥深いところから、どす黒い感情が湧き上がってきた。 他の男に教えさせたくはない。 初歩的な手解きならば自分にも可能だと、吉羅は咄嗟に言ったのだ。 香穂子が更に他の男と親密になるなんて、考えたくもなかったから。 今日はなんて一日だと、吉羅はこころのなかでひとりごちた。 伴奏を断られた香穂子のためにピアノを弾き、ヴァイオリンの弦についてアドバイスし、挙げ句の果てにはピアノレッスンまで申し出た。 なんという一日。 なのにいつも以上に充実感と幸せを感じている。 吉羅は楽器店の駐車場に車を停めると、香穂子を連れて店のなかに入る。 吉羅の姿を見るなり、出て来た店主が驚いたように息を呑んだ。 「暁彦君じゃないか…! 久し振りだねえ!」 「お久し振りです。実は、彼女のヴァイオリンの弦を張り替えて頂きたいんです」 吉羅の背後から香穂子がちょっこりと顔を出すと、頭を下げてヴァイオリンを丁寧に店主に差し出した。 「宜しくお願いします」 店主の雰囲気で腕利きの職人であることに気がついたのだろう。香穂子は深々と頭を垂れて、店主に最敬礼している。 「どれどれ、見せて貰おうかな」 店主は老眼鏡をかけると、丁寧にヴァイオリンの様子を見る。 「相当弾き込んでいるねぇ。こんなに弾けば、弦も本望だろうね…。こんなに弾き込んでいる弦を見るのは、美夜ちゃん以来だねえ…。音の癖も似ているだろうね…。恐らくは…」 店主は懐かしそうに弦を見た後、香穂子を見つめた。まるで香穂子の姿に美夜の姿を重ねているかのように見つめている。 「直ぐに張り替えよう。暁彦君とお嬢さんは待っていてくれ」 「はい。お願いします」 吉羅と香穂子はふたりして同じタイミングで言い、頭を下げた。 ふたりして待合いのソファに座ったが、沢山楽器が置いてあるせいか、香穂子は落ち着かずに直ぐに楽器を見て回る。 「日野君、見るのなら静かに見なさい」 「楽しいですよ。とっても!」 香穂子が燥いで楽器を見て回るのを、吉羅は目を細めて眺める。 かつて同じようなことがあった。 姉とふたりでこの楽器店に行き、ヴァイオリンの弦を替えて貰っている間に、こうして楽器を見て回ったものだ。 今、吉羅が座っているところに姉が座り、楽器を見ている暁彦を優しく見守ってくれていたものだ。 今、自分が香穂子に言ったのと同じ台詞を言って。 「さて、お嬢さん、暁彦君、弦の張り替えが終わったよ」 店主が出てくるなり、香穂子はヴァイオリンに飛び付いた。 「有り難うございます」 香穂子は本当に嬉しそうにヴァイオリンを眺めると、愛しそうに触れている。 吉羅は香穂子がヴァイオリンに夢中になり気付かないままで、支払いを済ませた。 香穂子はハッとして、緊張したように店主を見る。 「あ、あのっ、おいくらですかっ!」 「暁彦君が支払ったから良いよ」 豪快に笑う店主に、香穂子は申し訳なさそうに吉羅を見上げる。 「おいくらでしょうか?」 「出世払いだ」 吉羅はあっさりと言うと、先に店を出た。 その後を香穂子が大事そうにヴァイオリンケースを抱えて出て来る。 夢見るような瞳をして。 |