*無償の愛/天上の恋*

11


 優しく柔らかいピアノの音色が、香穂子のこころに響き渡る。
 誰よりも弾きやすい演奏をしてくれたひと。
 音楽を拒みながらも、恐らくは最も求めていたのではないかと、香穂子は感じていた。
 学院生だった頃、吉羅はどのようなヴァイオリンを奏でていたのだろうか。
 聴いてみたい。
 金澤なら音を持っているのではないだろうか。
 香穂子は、昼休みに金澤がいる森の広場へと向かった。
 金澤は相変わらず飄々としていて、猫と戯れている。
「どうした、日野。猫の集会にでも来たか? 猫神様は凄いぞー。願い事が叶うかもしれないからなー」
「あの、金澤先生、質問して良いですか?」
「どうぞ」
「あ、あの、吉羅理事長は、どのようなヴァイオリンを弾いていたんですか?」
 金澤は猫と戯れるのを一瞬止めると、軽く溜め息を吐いた。
 その横顔は、どこか険しい。
「…吉羅のヴァイオリンか…。ま、今のアイツは冷酷非道な完璧主義者ってイメージだから、冷たい音楽を奏でていたようなイメージがあるだろうが、感情を上手くメロディに乗せる、良いヴァイオリン弾きだったぜ。ま、今の姿を見たら、想像出来ないけれどな」
「解ります。昨日、ピアノ伴奏をして下さったんですが、とても柔らかくて弾きやすかったから…」
「アイツ、ピアノ伴奏したのか!?」
 金澤は驚いたように瞳を大きく開くと、声を上げた。
「はい。昨日、たまたま伴奏者がいない私に気遣って下さったみたいで」
「…アイツがね…」
 金澤は寂しそうな笑みをフッと浮かべると、青空を見上げる。
「…それは、お前さんに、かなりこころを開いているんじゃないか? 吉羅のやつ。そんな吉羅をみるのは、久々だな…」
 金澤は煙草を唇に押し込めると、遠い日を思い出すかのように目を細めた。
「吉羅理事長の音がとても綺麗で温かかったから、どのような音色をヴァイオリンで奏でていたのかなあって思ったんです。金澤先生ならご存じだと思って」
「どんなヴァイオリンを弾いていたかを言葉で説明することは出来るが、生憎、音そのものは学院には残っていないんじゃないか? 吉羅が理事長に就任する時に、自分と姉さんの音は総て引き上げてしまっただろうからな」
「そうですか…」
 やはり吉羅の音は聴けないのだと思うと、香穂子は肩を落として溜め息を吐いた。
「だからあんまり詮索すんな」
 金澤は薄く微笑むと、肩を二、三度叩く。
「日野君、余り詮索するのは良くないことだと思うがね」
 刺々しい声が聞こえ、香穂子が振り返ると、険悪な表情をした吉羅がいた。
「理事長…」
 昨日の吉羅からは想像出来ないほどの冷たさに、香穂子のこころは冷える。
「もうすぐ昼休みは終わりだ。ひとの過去を詮索するよりも、練習したほうが有意義だと思うがね。まあ、コンミス試験を完璧にこなせるのであれば、話が別だがね」
 吉羅は視線だけで香穂子を殺してしまうのではないかと思うほどのキツいまなざしを向けて来る。
「…失礼しました。理事長」
 香穂子は頭を深々と下げると、とぼとぼと離れていく。
 吉羅にとって、学院を過ごした日々は触れられたくない部分なのだろう。
 吉羅が触れられたくない禁忌な場所を侵してしまったことを、香穂子は後悔はしていなかった。
 閉じ込めている過去は、いつか乗り越えていかなければならないだろうから。乗り越えた後に、吉羅がもっと音楽を好きになって貰えるだろうから。
 吉羅はどのようなヴァイオリンを弾いていたのだろうか。
 気になって仕方がない。
 だが今は引くしかなかった。
 ヴァイオリンを弾いて、吉羅のこころを開いていくしか今はない。
 前向きに、吉羅のこころを開くような音楽を奏でたいと、香穂子は強く思った。

 香穂子の背中を見つめながら、吉羅は溜め息を吐く。
 香穂子を受け入れ過ぎたらしい。
 誰にも侵されたくない過去をほじくり回されるのは、もう沢山だと思った。
 捨てた過去だ。
 香穂子に詮索されたくはない。
「吉羅、お前さん、日野にピアノを弾いてやったらしいな」
「成り行きです。伴奏者がいないのを困っていたようなので」
「そっか…」
 金澤は何か言いたげな顔をした後、煙草を唇に押し込める。
「まあ、お前さんも随分と日野にはこころを開いているみたいだな。俺は良いことだと思うぜ」
 金澤は達観したような笑みを浮かべると、紫煙を宙に吐き出した。
「もう、関わる気はないですがね。これ以上詮索されるのが面倒ですから」
 吉羅はいつも通りにクールに呟くが、何故か自分で言った言葉が胸に刺さって痛い。
「お前さんがそう思うなら、そうすれば良い。だがな、アイツと関わらないようにするなんてこと、今のお前さんに出来るか? もう、とうの昔に、日野にこころを開き始めているお前さんに、俺は出来るとは思えないけどな」
 金澤は大きく伸びをした後で、煙草を携帯灰皿に押し付ける。
「ま、お前さんが日野に関わらないって言って、喜ぶヤツも大勢いる。ま、ライバルが少なくなるのは良いことだからな」
 金澤は吉羅の肩を叩くと、一瞬、男の顔をする。
 そこには明らかに、年端のいかない少女への淡い恋心を滲ませている。
 吉羅は予鈴を聞きながら、金澤の背中を見つめる。
 日野香穂子に本気になってはいけない。
 そう言い聞かせているのに、本気になってしまっている。
 恋なんていつ以来だろうか。
 いや、そもそも恋をしたことがあったのだろうか。
 ムキになっているところからして、今までにはない感情だ。
 吉羅は溜め息を吐くと、止めていた煙草に手を伸ばした。

 いつもなら放課後に香穂子が奏でるヴァイオリンの音が外から聞こえてくるのに、今日に限っては聞こえてはこない。
 あの優しいこころに響く旋律が聞こえないだけで、こんなにも苛々するとは思わなかった。
 あんなに冷たい態度を取ったのだから、香穂子が来ないのはある意味当然だ。
 こころでは来ないことは解っているのに。諦めろと言い聞かせているのに、どこかで期待する自分がいる。
 仕事が全く捗らない。
 苛々が頂点に達したところで、吉羅は堪らず外に出ることにした。
 香穂子を探しているんじゃない。
 ただの気分転換だ。
 そう自分に言い聞かせながら、正門前の中庭に出た時だった。
「もうすぐバレンタインだよねー。土浦君にチョコレートを上げようと思うけれど、きっと無理だよねー」
「無理かもね。だって、土浦君日野さんと付き合っているんじゃないかって、噂だよ。ほら、噂をすれば、アンサンブルの練習を一緒にしているじゃん」
「そっかー。土浦君は三年になったら転科しちゃうからなー。今がチャンスだと思ったのに…」
 女生徒の会話を聞きながら、柄にもなく胸を痛める自分がいることを、吉羅は気付く。
 確かに、香穂子と土浦は、同じ普通科同士で非常に仲が良い。
 香穂子が初めてコンクールに参加した時、土浦がピアノ伴奏を引き受けていた。あの演奏のビデオを見て、吉羅は何故だか苛々したのを思い出した。
 あの時は、香穂子の演奏が拙いからだと思っていた。
 しかし実際には、土浦がピアノ伴奏するのが気に入らなかったのだ。
 まるでガキだ。
 吉羅は溜め息を吐くと、香穂子たちが演奏しているだろう場所へと、誘われるように歩いていった。
 かなりの人々が集まり、吉羅はその端でアンサンブルの演奏を聴く。
 どんな楽器とコラボレーションしても、香穂子の音だけを聞き分けられる自分に、吉羅は苦笑する。
 恋など要らないはずなのに、恋を最も求める自分がそこにいた。



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