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吉羅が観客の端でアンサンブルを聴いてくれている。 昼休みにはあんなに冷たい態度だったのに、こうして聴きに来てくれたことが香穂子には嬉しくてしょうがなかった。 香穂子は俄然張り切ってヴァイオリンを奏でる。 昨日、張り替えたヴァイオリンの弦が金色の音色を奏でてくれる。 香穂子は耳を傾けている吉羅に向かって、こころを込めてヴァイオリンを奏でた。 演奏し終わると、誰もが大きな拍手をしてくれる。 完成度が高くなり、香穂子は思わず笑顔になった。 「日野、今の演奏、良かったぜ!」 「有り難う、土浦君!」 お互いの手をパンと叩いて、上手くいったことを讃え合う。 香穂子は、ふと吉羅の反応が気になって、視線を送った。 冷たい視線が凶器のように注がれている。 誰もが拍手を沢山してくれたというのに、吉羅だけは拍手を殆どしてはくれなかった。 厳しい目で、香穂子たちを見ている。 吉羅は静かに香穂子たちの横を通り過ぎると、冷たい言葉を言い放つ。 「…まだまだだ。君達はこれで理事たちを納得させられると思っているのかね」 冷酷な声。こころまで寒々と冷えきってしまうような声だ。 「お言葉ですが!」 土浦が吉羅を呼び止めると、瞳に不快感を滲ませる。 「俺たちはチームワークで更に良い音を奏でるつもりです。これ以上の演奏をしてみせます」 「…ほう…。君のピアノは些か主張が強すぎる。他の楽器とのバランスが悪くなる。自重したまえ」 吉羅は冷徹に土浦の改善点を指摘し、厳しい目を向けて来る。 余裕のある吉羅に、土浦は悔しそうな目を向けた。 雰囲気が険悪になる。 香穂子がオロオロと心配するような顔をすると、吉羅は冷たい目を向けてしまう。 「日野君、君ももう少しヴァイオリンの技術を磨いたほうが良い。明らかに他の演奏者よりもレベルが低いからね。コンミスとしてきちんと務められるように、努力してくれたまえ」 吉羅の的確過ぎる指摘に、香穂子はヘコんでしまう。 いつもならば反発するこころも芽生えるが、相手が吉羅だとヘコんでしまうほうが大きくなる。 確かにヴァイオリンを始めてから一年満たないせいか、知識や技術は、音楽科で英才教育を受けていたものに比べれば劣る。 痛いところを突かれてしまい、香穂子は唇を噛んだ。 「理事長、俺たちはアンサンブルコンサートを必ず成功させます。アンサンブルを成功させるには、日野の調整能力が必要なんです」 まるで香穂子を全身で守ってくれるように、土浦が立ちはだかってくれる。 仲間に嫌な想いをさせてはいけない。 香穂子は胸を張ると、堂々と吉羅を見上げた。 「私、精一杯やります。理事たちも理事長にも納得頂ける音楽を奏でられるように。普通科だからだと、変な目で見られ内容に、頑張ります」 香穂子が強い調子で言うと、吉羅は余裕ある目で見つめてくる。 「そうなるように頑張りたまえ」 吉羅は低い声で呟くと、香穂子達の前から静かに立ち去る。 打ち負かしたいなんて思えなかった。 ただこころを開けたかった。 吉羅は理事長室に戻るなり溜め息を吐いた。 香穂子と土浦が余りにも楽しそうに仲良くしているものだから、つい意地の悪いことを口にしてしまった。 先ほど噂話をしていた女生徒の影響かもしれない。 年甲斐もなく嫉妬してしまった自分に、頭を抱えてしまう。 吉羅はドカリと椅子に腰を下ろすと、顎の下で手を組んだ。 今まで嫉妬するなんてことはかなった。 それどころか、嫉妬なんて非生産的なことをするのは愚かなことだと思い続けて来た。 なのに自分がこんなことになるなんて思ってもみなかった。 恋愛に夢中になる輩を鼻で嘲笑していたのに。 今や自分がその立場になっている。 笑えたのは、きっと本物の恋を知らなかったからだ。 知らないからこそ、あんなにも冷酷なことが言えた。 恋も愛もいらないと。 吉羅は自分がいかに浅はかであったかを思い知る。 吉羅は何度も溜め息を吐きながら、香穂子の勝ち気なまなざしを思い出した。 あの凜とした瞳の奥には、誰よりも強い決意があることを吉羅は知っている。 香穂子はそのまなざしが似合う女だ。どんな困難にも立ち向かえるだけの精神力もある。 だから自分が課す困難を乗り越えて欲しいと思った。 不意にドアをノックする音が響き渡る。 「吉羅理事長、高等部の出願状況を報告に来ました」 「入りたまえ」 吉羅が促すと、高等部の事務長がうやうやしく中に入ってきた。 「高等部の出願状況です。併願、専願共に、昨年並みです。軒並み、出願数を減らしている学校が多いなかで、これはまずまずだと思います」 手渡された資料を吉羅は受けとると、軽く頷く。 「後、高等部ですが、音楽科の月森蓮がウィーンへ留学、普通科の土浦梁太郎が音楽科へと転科。音楽科教師から推薦が出ている日野香穂子は未だに保留です。来年度の編成の問題があるので、本人には、二月の頭には返事をするように話しております」 吉羅は、香穂子が未だに転科を決めかねているところが引っ掛かった。 あれ程までにヴァイオリンを愛している香穂子が、よもやギリギリまで迷っているとは思わなかったのだ。 確かに音楽科は普通科に比べると授業料が高い。しかも授業料以外の負担も大きいときている。 そのあたりが原因なのだろうか。 それとも何か特別なことがあったのだろうか。 吉羅は思いを巡らせながら、目を伏せる。 出来るならば、香穂子には音楽科でしっかりと勉強して貰いたい。そして今まで以上の効果を上げて欲しい。 「理事長?」 「恐れ入りますが、金澤さんを呼んで頂けませんか?」 「はい、解りました」 事務長が理事長室から出ると、吉羅は事務長が持って来た書類に目を落とした。 暫くして、金澤が理事長室に顔を出す。 「何だよ、吉羅」 「日野君の転科のことなんですが」 「日野の転科…」 金澤は髪をかき上げながら、どこか煮え切らないような表情になる。 「土浦と同時期に転科の話が出て、既に書類を親御さん宛てに渡してはいる。直ぐに転科を決めた土浦とは違って、あいつは未だに結論を出せていない。理由は解らないが、アイツは普通科とか音楽科とか関係なく楽しく音楽が出来たら良いとぐらいに思っているからな。だから迷っているのかもしれないし…。このまま大学まで学院にいるかどうかも解らないからとも言っていたしな…。ま、もう少しだけ待ってやってくれ。アイツにはギリギリまで考えて欲しいんだよ」 金澤は香穂子の複雑に揺れるこころを理解しているのか、理解を示すように言う。 「金澤さん…」 吉羅は自分が香穂子のことを殆ど理解していないことを痛感し、目を伏せた。 羨ましい、金澤が。 吉羅よりもラフに近づける金澤が。 香穂子がヴァイオリンを始めた頃から見守っている金澤が、羨ましくてしょうがない。 説得するなら自分の力で供思うが、ここは金澤の力を借りなければならないと、吉羅は思う。 「ま、俺もアイツが音楽科に転科したほうが良いとは思うが、アイツ自身のためを思うとどうなのかと、少し思うけどな」 「…そうですね。金澤さん、やはり日野君を説得して頂けませんか? 経済的に苦しいのならば、私が援助しますから」 「そうだな…。ま、そのあたりはあるかもしれないからな。俺からも日野を説得するが、お前からも説得しろよ」 「解りました」 金澤は頷くと、吉羅を見て目を細める。 「お前、良い方向に変わったな。日野に逢って、ここにいた頃のような良い顔になってきているぜ」 「金澤さん…」 「俺は戻るわ。昼休みの説得は俺がするが、放課後はお前がしろ。じゃあな」 金澤は吉羅を見守るように微笑むと、理事長室から出ていった。 金澤が理事長室を出て行った後で、吉羅は再び溜め息を吐く。 自分に香穂子を説得できるのだろうかと、初めて弱気になった。 M&Aを繰り返すようなことをしていた頃よりも、ずっと心細い。 その理由はわかっている。 自分の感情が殺せないからだと。 そして----誰よりも日野香穂子を愛しているのだと言うことを、吉羅はコントロール出来ない感情に思い知らされていた。 |