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昼休み、香穂子は金澤に呼ばれて、音楽準備室に向かった。 「失礼…します」 香穂子が恐る恐る音楽準備室の中に入ると、金澤が窓辺に立っていた。 「ああ。その辺に適当に座れ」 「はい」 香穂子がちょこんと落ち着きない気分で腰を下ろすと、金澤が近付いてきた。 「日野、お前さん、転科はどうするんだ? そろそろ決めて貰わなければならないからな。で、もうすぐリミットだってことを伝える為に呼んだ」 金澤は真っ直ぐ香穂子を見つめてくる。 「…私なんかが転科しちゃって良いのかなあって、時々、考えてしまうんですよ。ただでさえ、私学に行っているから、両親にも申し訳がないって思うこともありますし…」 「経済的なことなら、吉羅が援助すると言っている。だから心配するな」 「…吉羅理事長が…」 吉羅が経済的な援助をしてくれる。 それが嬉しくてしょうがない。 きっと両親に頼み込めば、何とかしてくれるだろう。 兄が関西の大学に行っているから苦しくはあるだろうが、説得すれば何とかしてくれるだろう。 「な、日野。学ぶ環境だとかは、俺や吉羅が何とかしてやる。それよりも、自分が音楽科で何をしたいのか。このまま音楽をずっと続けて行きたいのか。そういったことだけを考えれば良い」 「…先生…」 金澤も、吉羅も、香穂子のことを考えてくれている。 それが嬉しくて、香穂子はこころが温かくなるのを感じていた。 「俺がいうのはここまでだ。後は放課後、理事長様の直々の面談で話すことだな」 「…はい」 吉羅と直接逢って話をするのは、緊張してしまう。 吉羅が威圧感があるからというわけではない。 香穂子の胸を切なく苦しくさせる香りと雰囲気が、別の意味で香穂子を緊張させるから。 「さてと、日野、お前さんもそろそろ教室に戻れ。続きは放課後の理事長室だ。ま、俺はお前が転科をして、音楽漬けの日々を送って欲しいとは思うがな。ま、これは俺のひとりごとと思って聴いてくれ」 「はい」 香穂子は椅子から立ち上がると、金澤に頭を下げて準備室から出た。 その瞬間溜め息が出る。 ひとりで転科をするわけではないから、不安や困難は少ない。 だが迷ってしまう。 音楽はこのまま続けたい。 だが、これ以上、吉羅のそばにいたら、こころが壊れてしまうのではないかと思ってしまう。 吉羅は香穂子には特に厳しい。 仕方がない。計画を変更させてしまったのだから。 だが、時折、こちらが蕩けるような優しさを見せてくれるものだから、それに甘えていたのかもしれない。 香穂子は溜め息を吐くと、教室へと戻っていった。 理事長からの呼び出し状を受け取り、香穂子はヴァイオリンを抱き締めながら理事長室へと向かった。 きっと転科のことなのだろう。 素直に決められれば良かったが、様々な想いが重なって踏切ることが出来ずにいた。 音楽科にも随分と友人も出来たが、それでも反発する者も少なくはない。 乗り越えることが出来るとは思うが、不安もある。 音楽科だとか普通科だとか関係なく、音楽を勉強出来れば良いのにと、思わずにはいられなかった。 「理事長、日野です」 「はい。入りたまえ」 香穂子はおずおずと理事長に入る。 スカートのプリーツの皺がとても気になる。 緊張していると、吉羅は意外なことを申し出た。 「日野君、ヴァイオリンを弾いてくれたまえ。君のヴァイオリンを聴きたくなってね。今、練習をしている曲で構わないから」 「はい、解りました」 今、練習をしている“ある晴れた日に”を奏で始める。 哀しい恋のオペラ。 香穂子は、吉羅への恋心を曲にぶつけて奏でる。 蝶々夫人のように、最後は報われない恋なのかもしれない。 だが今は、僅かな可能性を音に込めながら、香穂子は奏でた。 哀しいほどに美しい曲だ。 それにふさわしいように、甘く哀しく奏でられる技量はまだまだないかもしれないが、せめてこの想いを伝えたかった。 香穂子が泣きそうな気分になりながらヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は大きく拍手をしてくれた。 「ブラボー。日野君」 低く落ち着いた声であったが、吉羅が香穂子の曲を褒めてくれているのは違いなかった。 吉羅の瞳は優しく解けていて、その本質を映すかのように繊細な煌めきを見せている。 本当に綺麗だった。 慈しみ溢れる瞳を見せつけられると、こころから愛されているのではないかと、錯覚すらしてしまう。 「良く弾けていた。君は音に感性を乗せるのが上手いね」 「有り難うございます」 クラシカルな理事長室の窓から、午後の柔らかな陽射しが差し込んでくる。 吉羅をスポットライトのように黄金色に輝かせて、整った容貌を更に素晴らしく見せていた。 本当に自分の世界と同じ場所にいる人間なのだろうかと、香穂子は思わずにはいられなかった。 かけ離れた世界にいるひとのように思えてならない。 「さてと、かけてくれたまえ。演奏の御礼だ」 吉羅はそう言うと、香穂子に香りが良い紅茶と、霧笛楼のケーキを出してくれた。 吉羅自身はブラックのオーガニックコーヒーを口にしている。 「さあ食べると良い。私もちょうど、お茶の相手が欲しいと思っていたからね」 吉羅はそれだけを言うと、暫くは何も言わなかった。 「上手く弾けていた。良いものを聴かせて貰った。良い気分転換になったよ」 「こちらこそ、ケーキ、ご馳走さまです…」 「はは。そんなもので君の生演奏を聴けるのは安上がりだと思うけれどね」 吉羅はコーヒーカップをソーサーに置くと、香穂子を真っ直ぐ見つめてくる。 鋭い何もかも見透かしてしまう瞳だ。 決して嘘は吐けない瞳だ。 香穂子は息が詰まるほどの甘い塊を胸に感じる。 「君のヴァイオリンはまだまだ伸びる。このままにしておくのは勿体ないと、私は思うがね。君がヴァイオリンの技術を伸ばしていくのに協力するのは、理事長として吝かでないよ。日野君、君が望む音楽環境を提供する。何も心配しなくて良い。経済的なことも、そして外部からの攻撃も何もかも。何かがあれば全力で君を守ろう。だから安心して音楽科に来たまえ」 吉羅はまるで原稿に書かれた台詞のようにすらすらと呟く。そこには感情の機微だとかは何も感じられやしない。だが、香穂子を見つめてくれる瞳だけは、何よりも優しくて慈しみあるものだった。 吉羅のまなざしが話してくれている。 香穂子を正当に評価していると。いや、実際にはそれ以上に評価してくれている。 吉羅の瞳を見れば、これからどんなことがあっても、その背中を見ていれば、乗り越えていけるような気がした。 それに。 愛おしい人にここまで言われて、断れるはずはないではないか。 「親御さんの説得は、私や音楽科の教師も協力する。だから君は、何の心配もなく音楽科に来なさい」 吉羅は香穂子を瞳で捕らえてきた。 あの瞳に一度捕まってしまえば、もう逃げることなんて出来やしない。 今まで様々なことで悩んでいたのが嘘のように、とても簡単に腹が括れた。 スッキリするぐらいに明確な答えが出る。 「私は…音楽科にお世話になります。宜しくお願い致します」 香穂子はソファから立ち上がると、吉羅に深々と頭を下げる。 「ただし、ひとつだけお願いがあります」 「願い?」 「理事長室をたまに練習に使用して良いですか…?」 フッと吉羅の表情に笑みが浮かび、香穂子のこころを蕩かせる。 「…良いだろう…。日野君」 吉羅の言葉に、香穂子は笑顔になった。 |