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転科を決めると、意外なほどにアンサンブルに集中することが出来た。 オーケストラメンバーも、強力な面子で揃いつつあったし、アンサンブルの出来も良くなってきている。 学内コンクールから秋のアンサンブルと経ているメンバーのせいか、何度か合わせれば、予想以上に良い曲を奏でることが出来た。 都築は遠くで香穂子たちの演奏を聞き入りながら、日に日にその信頼感を大きくさせていっている。 吉羅との打ち合わせの際も、そのことについて言及していた。 「理事長、日野さんたちの演奏を聴いてきました」 「ほう…。彼等は頑張っているかね」 吉羅はわざと関心など殆どないかのように呟き、書類に目を落とした。 「…素晴らしいですね。あれだけ短時間でレベルの高いアンサンブルを完成させるなんて、大学のメンバーでも、なかなか出来ることではありません。日野さんもメンバーたちの仲や音楽的な対立にも気を配っているようで、彼女がいないと、上手くいかなかったと思うぐらいに、メンバーの調整が上手いです」 「彼女の元来の素直さと意志の強さが成せる技だろうね」 都築に香穂子への恋心を知られたくはなくて、吉羅はわざと冷たく言った。 内心では気心を知るアンサンブルメンバーに嫉妬すら感じていた。 相手は子供で、自分は年月を重ねてきた大人だというのに、メンバーに嫉妬せずにはいられない。 「土浦君から聴いたんですが、やはり彼女はコンミスに向いていると思いますよ。後はどれぐらい日野さんが努力をして、足りない部分を補うかによりますね。彼女ならやるでしょうけれど」 「恐らくはやるだろうね。負けん気の強さを発揮して」 吉羅は香穂子ががむしゃらに一生懸命頑張る姿を思い出して、笑みを浮かべていた。 「…上手く立ち回ってくれると、期待しているのだがね」 「日野さんなら必ず」 香穂子の前ではいつも厳しい都築ではあるが、その能力をきちんと評価してくれているのが嬉しい。 オーケストラの指揮を任せて良かったと、吉羅はこころから思った。 「日野さん、転科するんですよね?」 「本人がそう決めた。今日は彼女の練習が終わったら、金澤さんとご両親を説得に行く予定だ」 「ご両親も納得して下さったら良いですね。彼女が音楽科に移ることは、とても良いことだと思いますから。 音楽的な知識が足りなければ、彼女に教えてくれる先輩や後輩、それに金澤先生もいますから、そのあたりで補うことが出来るでしょうからね」 都築は万全の体制で臨めるから、香穂子は恵まれていると言いたいのだろうが、吉羅は言い様のない嫉妬に苦しめられていた。 確かに香穂子にとっては、沢山仲間がいることは望ましいことなのだろう。 だが、その仲間は殆どが香穂子を慕っている。しかも、友人だとか先輩だとかではなく、異性として慕っているのが解る。 香穂子は負けん気は強いが、優しく、明るく、そして素直で前向きな性格だ。近くで知れば、惹かれるのは当然かもしれないとすら、吉羅は思う。 現に、吉羅自身が強く惹かれているのだから。 今までそれなりに惹かれた相手はいたが、誰もが吉羅よりも年上で理知的な美しい女性ばかりだった。 年下を魅力的だと思ったのは、吉羅にとっては生まれて初めてかもしれなかった。 しかもこれ程までに惹かれた相手は他にはいない。 香穂子以外にいないのだ。 初めて経験する想いに、吉羅は戸惑いを隠せなかった。 「理事長?」 都築に声を掛けられて、吉羅はハッと我にかえる。 「都築君、ご苦労だった。日野君のこと、引き続き頼んだよ」 「はい。お任せ下さい理事長」 都築は頭を下げると、理事長室を辞した。 今まで、ひとと話をしている時も常に冷静でいられたのに、香穂子に恋をしてからというもの、いつも香穂 子のことばかりを考えてしまい、集中力が欠けてしまっている。冷静に物事を考えられなくなっていた。 「…私としたことが…だな…」 吉羅はひとりごちると、自嘲ぎみの笑みを唇に浮かべる。 香穂子以上に夢中になれるものは、きっとこれから現われないと切なく感じていた。 下校アナウンス十分前に、日野香穂子が理事長室に姿を現した。 「今日の練習の仕上げに来ました」 香穂子はにっこりと笑うと、吉羅の前でヴァイオリンを構える。 「練習していきたまえ。それが約束だったからね」 「はい。たっぷりと練習していきますね」 香穂子はにっこりと笑って、練習している交響楽を弾き始めた。 ヴァイオリンに集中して演奏を始める香穂子は本当に美しい。ヴァイオリンに恋をしているのが解り、妬いてしまうほどだ。 本当に綺麗だと思う。 世の中には香穂子よりも美しい女性はいくらでもいるだろう。だが、吉羅のこころを震わせる美しさを持つのは、紛れもなく香穂子だけだ。 香穂子が奏でるヴァイオリンの調べですらも、この世で一番美しいと感じていた。 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると同時に、下校を促す放送が流される。 吉羅は、頭を下げた香穂子に、惜しみない拍手を送った。 「難易度の高い曲を演奏出来るのは良いことだ」 「リリが折角楽譜をくれたので」 香穂子は嬉しそうに笑い、はにかみを見せている。 「さて、行こうか。余り君のご両親をお待たせしてはいけないからね」 「はい」 香穂子が準備が出来るのを待って、吉羅は理事長室を出た。 駐車場で待っていると、一拍遅れたタイミングで金澤がやってきた。 「おっと、待たせたな。二人とも」 「では行きましょうか」 吉羅はフェラーリのドアを開けると、ふたりに中に入るように促す。 香穂子が後部座席に、金澤が助手席。当たり前の座席ではあるが、ほんの少しだけ香穂子に横にいて欲しいと思ってしまっていた。 学院から香穂子の家は本当にすぐで、短いドライブになる。 吉羅は近くの有料駐車場に車を停めた後、日野家へと向かった。 出迎えてくれた香穂子の両親は、吉羅の姿を見るなり恐縮しているようだった。 リビングに通されると、温かな家族の雰囲気が感じられて、どこか切なかった。 自分が遠い昔になくしたものが、日野家にはあったからだ。 「お嬢さんの転科についてですが、何があっても私が責任を持ちます。お嬢さんの才能は、星奏学院にとっても、音楽界にとっても、貴重な存在です。これから何があっても私がお嬢さんを守ります。ですから安心して音楽科に預けて下さいませんか? お嬢さんの才能を学院としても、あらゆるバックアップをしていきますから」 吉羅はいつもとは違って、深い想いを込めて言う。 香穂子の両親は顔を見合わせると、僅かに笑みを浮かべた。 「そこまで娘を評価して下さるのは嬉しく思います。前向きに検討をさせて頂きます」 香穂子の父親は、本当に嬉しそうで、そして何処か寂しげにも見える笑みを浮かべている。 「有り難うございます」 吉羅は頭を下げると、香穂子の両親が賛成してくれると願わずにはいられなかった。 金澤とふたりで説得と説明は、三十分もかからなかった。 良い感触を得られて吉羅もホッと肩の力を抜く。 日野家から出る際、香穂子は外まで送りにきてくれた。 「理事長、先生、有り難うございました」 香穂子は丁寧に礼を言うと、頭をさげてくれた。 「それでは日野君」 「またな日野」 ふたりが車に乗り込むのを見届けてもなお、香穂子は見送りをしてくれた。 バックミラーに映らなくなるまで。 日野家が見えなくなると、金澤はフッと息を吐いた。 「なあ吉羅よ、何だかお前、日野の両親に結婚を申込む時みたいだったぜ」 金澤の言葉を、吉羅はクールにあしらう。 「日野君が転科するのために言ったに過ぎないですよ」 「それにしては、熱かったぜー。なあ、野毛に飲みに行こうぜ」 「私の車は野毛は似合いません」 「チャーメン食べようぜ。チャーメン」 金澤の言葉に溜め息を吐きながら、吉羅は行きつけのバーへと車を向かわせた。 |