*無償の愛/天上の恋*

15


 吉羅と金澤が帰った後、姉はうっとりと溜め息を吐いた。
「香穂子、あの理事長、凄く素敵じゃん! 何か、映画とかにああいうひとって出てきそうだよね! まあ、住む世界は違うのは解っているけれど、女なら夢を見てしまいそうなタイプの男だよねー!」
 姉は吉羅を絶賛しながら、うっとりとしたまなざしを宙に向けている。
 確かに今日の吉羅も隙がなくて、どこかクールだったが、いつもよりも物腰が柔らかく、紳士に見えた。
 それもまるでロマンス小説に出てきてしまいそうな紳士だ。
「だけど理事長さん、香穂子の転科の話をしている時に、何だか結婚の挨拶でもしているみたいに熱心だったわね。お父さんなんてかなり複雑な顔をしていたもの」
 母親は溜め息を吐きながら、リビングの後片付けをしている。
 母親の言葉に、香穂子は何だか耳まで真っ赤にしてしまう。
 結婚の挨拶をしているようだったなんて言われたら、ドキドキしてしまうではないか。
 あくまで生徒と理事長で、それを壊すようなことは今まで一度としてなかった。
 だが何処か期待をしてしまう。
 理事長と生徒以上の関係に、何時かはなることが出来るのだろうか。
 香穂子は期待を抱きつつも、何処か不安にもなっていた。
 香穂子たちが話していると、父親がゆっくりとダイニングに入って来る。いつもとおりに新聞を片手に、香穂子の横を過ぎる。
「香穂子、お前が望むならば、音楽科に転科をしても構わん。ただし、しっかりと練習をして、私たちや説得に来て下さった理事長や金澤先生をがっかりさせないように」
 父親は何でもないことのようにさらりと言うと、ダイニングテーブルについた。
「良かったねー! 香穂っ!」
 姉に抱き付かれて喜ばれても、香穂子は一瞬、惚けてしまった。
「お父さんにお礼を言うんですよ! 後、わざわざうちに来て下さった理事長さんたちにも」
「はい」
 香穂子は生真面目な表情で神妙に頷くと、母親は頷いた。
 香穂子は父親がいるダイニングに行くと、その横にちょこんと座る。
「お父さん、転科のこと、有り難うございました。嬉しかった。ヴァイオリン、一生懸命練習するからね」
「解った。今夜にもちゃんと書類を書いておくから、明日、金澤先生にちゃんと提出をするように」
「有り難うお父さん、大好きだよ…」
 香穂子は父親を抱き締めると、嬉しくて涙ぐんだ。

「結局は、ここかよ…。俺はチャーメンが良かったんだけれどな」
 金澤は港近くにある洒落たジャズバーで溜め息を吐きながら、酒を舐めた。
 吉羅は車を運転していく手前、カプチーノに口をつけるだけだ。
「…日野はこれで音楽科に転科してくるだろう。あいつも感謝しているだろうさ、お前にはな」
「私は当たり前のことをしたまでですよ。彼女がこのまま伸びてくれれば、学院には利益になるわけですからね」
 吉羅はわざと硬い声を出すと、感情を冷たく覆う。
 香穂子への恋心を知られてはならない。
 たとえ金澤であっても。
 だが金澤は総てをお見通しとばかりに、吉羅の顔を見た。
「…なあ、お前…日野のことが…好きなのか…?」
 金澤は何処か切なげな色を帯びた声で呟く。
「…日野君が好きであるとかは、関係ありません」
 見透かされているとは思いながらも、吉羅は淡々と呟いた。
「そっか…」
 金澤は何処かホッとしたような、それでいてガッカリとしたような溜め息を吐く。
「…どうかされましたか?」
「ライバルは少ないほうが良いと思っただけだ。気にするな」
 金澤はあからさまに牽制するような台詞を言うと、酒を煽るように飲んだ。
 金澤も香穂子とは禁忌な関係だ。それでいて堂々と言うところをみると、牽制しているのだろう。
 金澤が香穂子のことを生徒以上に思っていることを、吉羅は勿論気付いている。
 だからこその牽制なのかもしれない。
「…ま、お前がこのレースに乗らないなら。それはそれで、俺には助かるのかもな」
金澤は独り言のように言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ出るか。今度こそチャーメンだな」
「だから野毛は嫌だと」
「---吉羅よ、いつまでもスマートな大人気取りでいたら、欲しいものは手に入らなくなるぜ。いい加減、その枷を外せ」
 金澤の鋭い視線に、吉羅は溜め息を吐くしかなかった。

 翌日、香穂子は朝一番で金澤に転科の書類を提出した。
「ごくろうさん。ようやくこれでスタートだな」
「はい。ようやくスタートラインに立ったばかりですから。金澤先生、両親を説得して下さって有り難うございました」
 香穂子が丁寧に頭を下げると、金澤はニッコリと笑った。
「俺はただ横にいただけだぜ。礼を言うなら、吉羅に言え」
 吉羅という名前を耳にするだけで、香穂子はにっこりと微笑んでしまう。
 それ程までに、吉羅暁彦という男を愛しているのだ。
「はい。理事長にもお礼を言いに行きます」
 香穂子が満面の笑みを浮かべると、金澤は何処か眩しそうに目を細める。
「きっと“当たり前のことをした”なんて言いながらも、嬉しそうに笑うはずだ。行ってやれ」
「はいっ! 有り難うございますっ!」
 香穂子は深々と頭を下げると、金澤に笑ってみせた。

 昼休みになり、香穂子は素早く昼食を食べた後で、吉羅のいる理事長室へと向かった。
 理事長室に行く時は、いつもヴァイオリンを持っていく。今日も礼を言うだけのに、ヴァイオリンを持ってきてしまった。
 ときめく緊張で、香穂子は微笑みを綻ばせてしまう。
 香穂子は背筋を伸ばしてドアの前に立つと、ノックをした。
「理事長、日野です」
「入りたまえ」
 吉羅の声は相変わらずクールだ。香穂子は静かになかに入ると、吉羅に視線を投げた。
 柔らかな陽射しを浴びて仕事をしている姿はとても魅力的で、香穂子は魅入られてしまう。
 香穂子が余りにもじっと見つめているものだから、吉羅は不意に手を止めた。
「日野君、どうかしたのかね?」
「あ、いえ…。今日はお礼を言いに来ました!」
 香穂子はいつも以上にうわずった声で言うと、吉羅を見る。
「今日、転科の手続きの書類を、金澤先生に出して来ました」
 吉羅は表情を変えずに、静かに聞いている。
 いつもと同じだ。
 香穂子の転科が正式に許されたことを、まるで気にはしていないようだ。
 少し寂しかったが、それが吉羅らしいとも、香穂子は思った。
「あ、あの、転科の件ですが、色々とご尽力頂いて、有り難うございました」
 香穂子は素直に感謝の気持ちを礼に込めて、深々と頭を下げる。
 顔を上げると、吉羅は予想通りにいつもと同じ素っ気無い表情をしていた。
「礼を言われるようなことをした覚えは、私にはないがね。当たり前のことをしたまでだよ。学院を発展させるためには、君を有名ヴァイオリニストに育てなければなるまい。私は学院の為に行なったまでだよ」
 吉羅は淡々と、金澤と予想した通りの言葉を呟く。これには流石の香穂子も吹き出しそうになった。
 肩を震わせて笑いを堪えていると、吉羅が怪訝そうに香穂子を見つめている。
「どうかしたのかね? 何かおかしなことでもあったのかね?」
 吉羅の困惑したような声に、香穂子は首を横に振る。
「いいえ、何もありません。理事長、本当に有り難うございました。これから益々ヴァイオリンを頑張りますね」
「そうしてもらう為に、私はやったに過ぎないよ」
 先ほどまで冷たかった吉羅の瞳が綻んで、甘くなる。
 吉羅の瞳が優美に輝いたものだから、香穂子はうっとりと微笑んだ。
「日野君、ヴァイオリンを弾いてくれないか? 音楽科としての実力を聞きたいからね」
「はい」
 香穂子はヴァイオリンを丁寧に取り出すと、華やかに奏で始めた。



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