*無償の愛/天上の恋*

16


 土曜日は横浜の街は華やかで賑やかになる。
 春節だ。
 当然、誰もが中華街に向かい、チャイニーズニューイヤーを楽しむものだから、公園自体はひっそりとなる。
 ギャラリーが少ない中、香穂子は熱心にヴァイオリンを練習していた。
 一曲奏で終わると、落ち着いた拍手が聞こえて、香穂子は振り返った。
「また、上手くなったかな、お嬢さん」
「理事長…」
 吉羅の薄い笑顔に、香穂子も微笑み返した。
「町中がお祭騒ぎなのに、君はそれに参加せずにヴァイオリンの練習かね? 折角の春節なのに」
「理事長もですよ。町中お祭騒ぎなのにお仕事ですか?」
「ああ。沢山たまっていたからね。だけど、かなり頑張ったからか、目処はついたよ」
 吉羅は香穂子を甘いまなざしで見つめると、ゆっくりと近付いてきた。
「年に一度のお祭の最中に仕事ばかりもどうかと自分でも思っているがね。どうかね、今から春節に付き合っては貰えないかな?」
 願ってもない申し出に、香穂子は飛び上がってしまいたくなる程に嬉しかった。
「行きたいです! 理事長と一緒に春節に行きたいです!」
 香穂子が些か興奮ぎみに言うと、吉羅は頷いてくれる。
「では、行こうか。貴重な時間を無駄にせずに楽しもう」
「はい!」
 香穂子は満面の笑みを浮かべて、吉羅の後に着いて行く。
 車で中華街の近くで車を停めて、ふたりは中華街へと入っていく。
 既にかなりの人出で、息を吐くことすらも出来ない。
「あ! パレードですよっ! 賑やかで綺麗ですよ!」
「そうだね」
「あっ! あんなところに着ぐるみがありますよ! パンダ、可愛いー!」
 香穂子は、吉羅が隣にいるということも気にせずに、燥いで賑やかな中華的なお正月を楽しんだ。
「日野君、余りあちこちに行かないでくれないかね? 君を追い掛けるのは大変だ」
「…すみません…」
 香穂子がしょんぼりとすると、吉羅は呆れるような溜め息を吐く。
 吉羅に呆れ返られてしまった。
「…子守をするのは大変なんだ」
 吉羅の冷たい言葉に、香穂子は肩を落とした。
 確かに子供の反応だ。大人の女性なら、決してこのようなことはしない。
「…すみません…理事長…」
 つい燥いでしまった。吉羅との距離を感じて、香穂はは泣きそうになった。
 吉羅と壁を感じてしまう。
 住む世界が違うのだと、思いしらされるような気がして、嫌で堪らなかった。
 つい壁を感じた時は、“理事長”と呼んでしまう。
 今はそれ程距離が遠いような気がした。
 吉羅の唇から溜め息が漏れる。
「…君が迷子になってしまったら、困るからね」
「…すみません…」
 香穂子がうなだれていると、不意に手に温もりを感じた。香穂子がしゅんとしていると、いきなり手を繋がれてしまう。
「…理事長…」
「ここでは理事長は禁止だ」
「…はい。吉羅さん」
「君が迷子になると困るからね」
 吉羅はクールに言いながらも、香穂子の手をギュッと握り締めてくれた。
 温かく心地よい力で、手をしっかりと繋がれる。
 香穂子は吉羅の手をギュッと握り締めた。
 人込みならば、吉羅と手を繋いでいても、誰にも気付かれることはない。
 香穂子は泣きそうなくらいの幸せを噛み締めながら、吉羅を見上げた。
「有り難うございます。吉羅さん」
 吉羅はクールなままで何も答えない。香穂子はその横顔を見つめながら、少しだけこころが温かになるような気がした。
 デートではないけれども、そう錯覚したい。
 吉羅の温もりを感じている限りは。
「あ! パンダまん! 可愛い!」
「食べるかね?」
「吉羅さんは?」
「私は甘いものが苦手でね。君は食べると良いが」
 吉羅は、香穂子がお財布を出す前に、さり気なくパンダまんを買ってくれる。吉羅には最も似合わない光景だと、香穂子は思った。
「どうぞ、お嬢さん」
「有り難うございます!」
 香穂子は息を弾ませると、パンダまんをじっと見つめた。
「可愛いですね。愛嬌があって」
「私には間抜けずらにしか見えないけれどね」
 吉羅は珍しく微苦笑すると、パンダまんを微笑ましいように見ていた。
「温かいうちに食べたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子はパンダまんをじっと見ながら、何だか可愛い過ぎて勿体ないような気がした。
「何だか勿体ないですね食べちゃうの。こんなに可愛いから。だけど、温かいうちに食べてしまいますね」
「それが良い」
 香穂子は遠慮なく大きな口を開けると、パンダまんを頭から食べる。
「あ! 甘くてなかがチョコレートですよ!」
「私は遠慮したいがね」
「でしょうね」
 香穂子はくすくす笑いながら、パンダまんを食べる。
 香穂子がパンダまんを食べている間も、吉羅は手を放さずにいた。
 放さないでいてくれる。
 それがとても嬉しい。
 香穂子はほわほわとした幸せを感じながら、吉羅に遠慮がちに寄り添った。
「屋台もいっぱい出ていますね。あ! 中華ちまきだ!」
「日野君、君は屋台でお腹いっぱいになる気かね? 私としては、ゆっくりと食事をしたいものだが」
 吉羅はあくまで微笑ましいといった雰囲気で話してくれるのが嬉しかった。
「私はそれでも構わないですが、吉羅さんはそうはいかないですよね。だけど、ものすごく混んでいますよ」
「ああ。それなら心配しなくて良いから。ちゃんと手配してある」
 吉羅は時計を見ると、少し早いペースで歩き始める。
「そろそろ時間だ。美味しい飲茶を食べさせてくれるところだ。ランチだから、君も飲茶のようなものが良いだろう?」
 香穂子は満面の笑みを浮かべながら、吉羅を素直な瞳で見上げた。
 手から温かさを感じると、恋心にも素直になれるから不思議だ。
「飲茶、楽しみですよ」
「期待してくれたまえ」
「はい」
 香穂子が吉羅に笑みを浮かべると、少しだけ笑顔を返してくれた。

 吉羅が連れて行ってくれた飲茶の店は、中華街でも最高級の店だと知られている。
 外の喧騒とは一線を劃しているかのように、予約客のみがゆったりと食事をしていた。
 何だか気後れしてしまう。こんなにも、高級な飲茶店には入ったことはなかったから。しかも今日の香穂子はラフなスタイルで、ランチを楽しむ客たちからも浮いているような気がする。
 しかも一緒にいるのが吉羅なのだ。
 目立たないわけがない。
 香穂子が溜め息を吐きながら落ち着かないでいると、吉羅が視線を落としてきた。
「どうかしたのかね?」
「凄い高級なお店だから…、何だか私…、浮いているような気がして…」
 香穂子が気後れするように言うと、吉羅は首を横に振る。
「そんなことは考えなくて良いんだよ。君は。ただ、食事を楽しむことだけを、考えれば良い。それに私もそばにいるから。君は堂々としていれば良いんだ」
「有り難うございます」
 香穂子はほんの少しだけ勇気が出て来て、にっこりと吉羅に微笑む。
 すると吉羅もまた頷いてくれた。

 席に通されて、吉羅とふたりになると、少しだけ落ち着く。
「好きなものを頼みたまえ」
「有り難うございます。いつもご馳走になってばかりで、申し訳ないです」
「まあ、未来の有名ヴァイオリニストさんへの先行投資といったところかな。私は、これでも投資先を見極める目は持っているつもりだからね」
 吉羅がわざとらしく不適に笑うものだから、香穂子は妙にドキドキしてしまう。
「き、吉羅さんの投資先の目利きが素晴らしいことを期待していますね」
 香穂子の言葉に、吉羅は不敵に笑った。



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