*無償の愛/天上の恋*

18


 吉羅と楽しく春節を過ごせたからか、香穂子はこころから幸せを感じていた。
 ヴァイオリンを弾く気分も高揚し、やる気が漲っている。
 吉羅のために、学院のために、そして自分のために…。
 ヴァイオリンをがむしゃらに頑張れる気分になっていた。
 月曜日の放課後に呼び出されて、香穂子は定期審査を受ける。
「…オーケストラのメンバーが全員揃ったようだね。先ずはおめでとう。よく頑張ったね」
 いつもは厳しくて仕方がない吉羅のまなざしが、蕩けて甘くなる。眩しい程に魅力的な瞳に、香穂子は魅入られてしまう。
「有り難うございます。これも皆のお陰なんです。ホントいくら感謝をしてもしきれないぐらいです」
 香穂子が頬を染め上げながら言うと、吉羅は珍しく小首を傾げた。
「それは君がかなり頑張ったからじゃないのかね、日野君」
「…みんなのお陰です。それと理事長や都築さんにずっと見て頂いていたから…。本当に感謝です。それに まだ終わったわけではないので、気を引き締めて頑張らないといけないですから」
「…それはそうだね…。もう少し頑張ってくれたまえ。逆にここまで来たからこそ、もう少し頑張ってくれたまえ」
「はい、頑張ります!」
 香穂子が明るく元気に言うと、吉羅はしっかりと頷いてくれた。
 ふたりを、何故か都築は微笑ましそうに見つめている。
「それでは行きたまえ」
「はい、失礼致しました!」
 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅は見守るような視線を向けてくれる。
 その暖かさに酔い痴れながら、香穂子は理事長室を後にした。

 廊下を歩いていると、天羽が声を掛けてきた。
「香穂! ね! 練習終わったらさ、バレンタインのチョコレートを見に行かない? 生チョコとかさ、美味しいものがいっぱい売っているらしいよー! 私さ、マイチョコレートを買おうと思っているんだよ。一緒に行こうよ!」
 バレンタインデーのチョコレートで、香穂子は吉羅の顔を浮かべた。
 去年までチョコレートをあげる相手と言えば、父親と兄だけだった。
 今年は受け取って貰えるかどうかは解らないが、あげたい相手がいる。
 吉羅はチョコレートが好きだろうか。
 好きだとしたら、きっと滑らかでビターなチョコレートが好きなのではないだろうか。などと考えてしまう。
「どうしたの、香穂。何だかにやついているよー。怪しいなあ。チョコレートをどうしてもあげたい相手がいるね?」
「そ、それは…」
 香穂子がしどろもどろになると、天羽は益々瞳を輝かせた。
 天性のカンが黙っていないのだろ。
「ねえ、誰よ?」
「ひ、ひみちゅっ!」
 香穂子はわざと早口で言うと、真っ赤な顔で焦るように天羽を見つめる。
「…後で、一緒にチョコレートを見に行こうね。じゃあ放課後」
 香穂子は、天羽から逃げるようにヴァイオリンを抱えて音楽室へと向かった。
 香穂子が誰を好きなのかを天羽が知れば仰天はするかもしれないが、きっとそれ以上の突っ込みはないことぐらい解っている。
 だが、今は恥かしくて言えなかった。
 香穂子は真っ赤になったままで廊下を横断すると、練習に向かった。

 練習が終わり、クラブが終わった天羽と合流すると、駅前通りへと出た。
「香穂がどんなチョコレートを買うかで、好きなひとは大体想像はついちゃうけれどね」
「そ、そうかな」
「そうだよ。あ、あれ都築さんだよ。チョコレートショップは素通りか…。余り興味はなさそうだよね」
「そうだね」
「じゃあさ、声を掛けてみようよ」
「それは良いね」
 ふたりは都築に向かって駆けていくと、その前に飛び出した。
「都築さん、こんばんは!」
「あなたたちも今なのね。これからお茶でもするのかしら?」
「はい。あ、あのバレンタインチョコレートを買いに行くんですが、都築さんもいかがですか?」
 香穂子の提案に、都築は落ち着いた様子で頷いた。
「良いわね。私も何か買おうかしら。毎年、バレンタインにはチョコレートを頂くことが多いんだけれど、今年は新鮮に買ってみようかしら」
 都築は眩しそうに笑うと、頷いてくれる。
「じゃあ行きましょう!」
 天羽は気合いを入れるように叫んだ。
 バレンタインチョコレートは女の子の秘密。
 年に一度、女の子に告白が許された、甘い甘い一日だ。
 香穂子はチョコレート売り場に入るなり、高級チョコレートの店に迷いなく行く。
 ポイントはお酒に合うかということだ。
「あの、このビターチョコレート、お酒にあいますか…?」
「ええ、あいますよ。とっても上品な味になります。お味見如何ですか」
「お願いします」
 香穂子は差し出されたチョコレートを口にしながら、甘くて濃厚な味に思わず微笑んでしまう。
「何だか濃厚で美味しいです。あ、あの、大人の男性にも似合うでしょうか?」
 香穂子はドキドキしながら、店員に訊いてみると、ニッコリと微笑まれた。
「…美味しいですから、大人の男性にもぴったりだと思いますよ」
「…じゃあ、それを頂いて良いですか?」
「はい、有り難うございます」
 香穂子は、吉羅が受け取ってくれることを夢見ながら、チョコレートがラッピングされるのを待っていた。
 チョコレートを受け取り、香穂子は頬を赤らめる。
 いつも食事に連れていってくれるお礼に。
 大好きだということを素直に表すために。
 香穂子がチョコレートをうっとりと見つめていると、店員も仄かに笑う。
「上手くいくと良いですね。バレンタインデー」
「あ、有り難うございます」
 香穂子は真っ赤になりながら俯くと、天羽たちを探しにいった。
 天羽や都築は、まだチョコレートを選んでいる。
 香穂子はチョコレートの他に売られている雑貨を見に行った。
「あ、これ可愛いし、ぴったりだねー」
 香穂子はくすくすと笑いながら、雑貨を手に取る。それはチェシャ猫の置物。ニシャニシャと笑っているのが、何やら愛嬌があった。
 香穂子はイタズラめいた気分になり、それを手に取っていた。
 いつも吉羅の笑顔を見ていたいという気持ちを込めて、香穂子は置物に手を伸ばした。
 吉羅が気に入って貰えますように。
 この香穂子なりのジョークを受け止めてくれますように。
 香穂子はチョコレートと共に、この置物を贈ることに決めた。
 置物を買ったタイミングで、天羽に肩を叩かれる。
「買えたみたいだね」
「うん、有り難う」
 香穂子が頬を染め上げながら呟くと、天羽は目を細めた。
「香穂だけが本命がいるみたいだね」
「え、菜美はいないの?」
「うん! 食い気だよ! だけど良い買い物が出来たみたいで良かったね」
「有り難う」
 香穂子がプレゼントをギュッと抱き締めると、天羽は頷いた。

 香穂子は途中で天羽たちと別れて、のんびりと自宅へと向かう。その横をフェラーリが通り過ぎた。
 吉羅はようやく仕事を終えたのだろう。
 すると背後でクラクションが鳴り響いた。
 振り返ると、吉羅が車から出てくるところだった。
「日野君、今、帰りかね?」
「天羽さんと都築さんとでお買い物に行ってきたんです」
 吉羅にプレゼントを見られたくなくて、思わず背中に隠してしまう。
 見られたら、楽しみは半減してしまうから。
「そうか…」
 吉羅はフッと微笑むと、一瞬、指先で触れられる。
「…日野君、頬が冷えている…。家で温めたまえ。それでは」
 吉羅はさらりと言うと、再び車に乗り込む。
 指先の甘さに、香穂子はいつまでもドキドキしていた。



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