*無償の愛/天上の恋*

19


 アンサンブルコンサートを成功させたら、この恋を受け入れてくれるだろうか。
 香穂子はそんな気分で練習に望む。
 相手は大人の男性。
 女子高生なんかを相手にしないことは、充分に解っている。
 こうして気遣ってくれているのは、香穂子を兄のように心配しているからに他ならない。
 吉羅は、吉羅なりに、香穂子を見守ってくれているのだろう。まるで保護者のように。
 香穂子をコンミスに指名したのも、これから音楽の世界に泳いでいくためのことだ。
 香穂子の為に、あえて試練を与えてくれているのだ。
 それは解っている。解りきっている。
 だが、ほんの少しだけ切なかった。
 ひとりの後輩として、生徒として、ファータを見ることが出来る同胞としつ見るのではなく、ひとりの女性として見て欲しい。
 それは叶わないことなのだろうか。
 吉羅が時折見せつける寂しげな青い影を癒せるひとになりたい。
 それも無理な話なのだろうか。
 解らない。
 だが、切なくも燃え上がる恋心を、もう抑える自信などはなかった。

 ヴァイオリンを奏でようと屋上に行くと、吉羅の姿が見えた。
 佇む姿はとても寂しげであると同時に、何処か魅力的にも見えた。
 珍しく誰もいない屋上。
 吉羅の姿を見て、みんな何処かに行ってしまったのだろう。
 香穂子は吉羅に声を掛けることはせずに、そっとしておいてあげようと思い、隅で練習を始めた。
 夢中になってヴァイオリンを奏でていると、ここが何処であるかを忘れてしまうきらいがある。
 香穂子は、吹き荒ぶ冬の風など余り気にすることなく、ヴァイオリンを奏で続けた。
 不意に重い拍手が響き渡り顔を上げると、吉羅暁彦が佇んでいた。
「日野君、結構だよ。ヴァイオリンの腕も随分上達したようだ」
「有り難うございます」
 今は吉羅に褒められることが何よりも嬉しい。香穂子は、にっこりと微笑むと、吉羅に真直ぐな感謝の瞳を向けた。
 だがその途端にくしゃみをしてしまい、吉羅は眉根を寄せてくる。
「…風邪かね…?」
「いいえ。風邪は引いていないはずなんですが…クシュンっ!」
 再びくしゃみが出てしまい、香穂子は思わず洟を啜ってしまった。
「…やはり風邪を引いているのではないかね?」
「…そんなはずは」
「否定してもそんなにくしゃみばかりをしていたら説得力は全くない。風邪ぎみならば、こんな吹きさらしの屋上でヴァイオリンを奏でるんじゃない。ちゃんと音楽室や練習室でヴァイオリンを弾きなさい」
吉羅は厳しい口調で言い、香穂子を軽く睨み付けると、ジャケットをいきなり脱いできた。
「これでも着たまえ」
 吉羅にふわりと肩からジャケットを掛けられる。その仕草とさり気ない優しさに、香穂子は胸を切なく詰まらせた。
 ふわりと吉羅のコロンの香りが鼻孔をくすぐる。
 大人の爽やかさのなかに、何処か官能的な香りを滲ませている。
 心臓がいくらあっても足りないと思うぐらいに、香穂子を刺激する香りだ。
 ぶかぶかのジャケットではあるが、ふわりと掛けられると、何とも言えない幸せが、こころの奥底から滲んできた。
「…有り難うございます。だけど理事長が風邪を弾きます。理事長が風邪を引いてしまったら、困ります…」
 香穂子は吉羅の姿を見て、少し申し訳ない気分になる。
 だが吉羅はかたくなだった。
「日野君、ジャケットは君が帰る頃に理事長室に返しに来てくれれば良い。君が風邪を引くほうが事だろう。理事たちを説得するためのアンサンブルコンサートまで、後少ししかないのだからね」
「…はい。色々とご心配をお掛けして申し訳ありません…」
 香穂子が頭を下げると、吉羅は軽く頭を振った。
「謝らないでくれ。さあ、練習を続けてくれたまえ。私は理事長室に戻る」
「では後で立ち寄ります」
「ああ」
 吉羅の背中を見送りながら、益々胸がキュンと高鳴る。
 切なくて甘い締め付けられるような感覚。
 香穂子は、それが本物の恋なのだということを、ようやく自覚し始めていた。

 吉羅のジャケットが沢山の力をくれたからなのか、ヴァイオリンの練習はかなり捗った。
 楽譜の習熟度は総て百パーセントを超え、後はアンサンブルのコンビネーションの問題だけになった。
 これだけ捗ったのは、本当に吉羅のお陰だと思う。
 閉門ギリギリのところで、香穂子は吉羅にジャケットを返却に行った。
 理事長室はいつも緊張する。
 恐らくは定期考査が行なわれている場所だからだろう。
「理事長、日野です」
「…日野君か…。入りたまえ」
 吉羅の声に、香穂子はそっとドアを開けてなかに入る。
「吉羅理事長、ジャケットを有り難うございました」
 香穂子が丁寧にジャケットを差し出すと、吉羅は感情が余り感じられない表情で受け取った。
「有り難う」
 吉羅はジャケットを受け取るなり、スマートにそれを羽織る。
 その仕草は、流れる水のように自然なスマートさに満ち溢れていて、香穂子は思わず見惚れてしまう。
 この男性は、どうすれば相手を魅了することが出来るかを、本能で知っているのではないかと思う。
 香穂子がじっと見つめていると、不意に吉羅と視線が絡んだ。
「あっ、あのっ!?」
 その視線の魅惑的な光に、香穂子は落ち着いていられなくなる。
「…日野君、少し時間はあるかね?」
「あ、ありますけれど」
「だったらジャケットのレンタル費用は時間で返して貰おう。着いてきてくれたまえ。少し美味しいコーヒーを飲みたくなったらかね。付き合ってくれたまえ」
「は、はい」
 吉羅は手早く片付けると、肩にトレンチコートを引っ掛ける。
 いつもよく吹き飛ばされないものだと感心してしまうのだが。
 吉羅の後をちょこまかと着いていくと、駐車場にたどり着く。
「近場で申し訳ないがね。甘いケーキ等も食べられるところだから」
「甘いケーキは、とても惹かれるところですね」
 香穂子は笑顔で答えながら、吉羅の車に乗り込んだ。
 もう何度となく乗り込んだ車。
 なのにまだ慣れてはいない。
 いつも助手席に座る時は緊張してしまうのだ。
「さてとここからは直ぐだ。君の家にはちゃんと送って行こう」
「はい。有り難うございます」
 吉羅は車を出すと、五分程で目的地のカフェへと着いた。
「さあ行こう」
「はい」
 女子高生と上流な雰囲気を纏った大人の男性。
 これ程釣り合いの取れていない組み合わせはないのではないかと、香穂子は寂しく思う。
「日野君、好きなケーキを頼みたまえ」
「…はい。あっ! 季節柄かチョコレートケーキが充実してますね。ザッハトルテが良いです」
「じゃあザッハトルテと…、飲み物は何にするかね?」
「アールグレイを」
 吉羅は頷くと、素早く注文をしてくれた。
「日野君、アンサンブルコンサートまで後少しだ。頑張ってくれたまえ」
「はい。有り難うございます」
 香穂子が笑顔で答えると、吉羅はフッと微笑む。
「君は努力など厭わないタイプだね」
「ヴァイオリンだけです。ヴァイオリンの練習をするだけで楽しいから、努力だとかは特別思ってないんです」
 香穂子の言葉に、吉羅は一瞬、寂しげな顔をする。
 何処か切なげな瞳だ。
「…君と同じようなことを言っていたひとを知っているよ…。君と同じようにヴァイオリンが好きで、そしてザッハトルテもアールグレイも好きだった…」
 懐かしげに言う吉羅の横顔を見つめながら、香穂子は切なさで胸が詰まるのを感じる。
 何か言いたいのに何も言えなかった。
 そのタイミングで、注文していたケーキと紅茶がやってくる。
「さあ、食べたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子は頷くと、黙々と食べ始めた。



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