*無償の愛/天上の恋*

20


 コンサートに向けて、アンサンブルもいよいよ仕上げの段階に入り始めた。
 メンバーたちを集めた練習にもかなり熱が入る。
 個性的なメンバーが集まっているので、調整が大変ではあるが、そのかいがあってか、完成度はかなり高まっていた。
 コンサートに向けて、曲に益々磨きをかけていく。
 理事たちに喜んで貰うというよりは、会場に来てくれた人々全員に喜んで貰う為に、頑張っていた。
 週末には、ほぼ完成することが出来た。
 演奏というものは、“これで最高”というレベルがないから、時間が有る限りはブラッシュアップに努めなければならない。
 今出来る限りの最高のことを、しなければならないと、香穂子は思っていた。
 週末を迎え、香穂子は午前中、アンサンブル仲間たちと入念な練習を繰り返した。
 メンバーたちは午後からは個々に用があるようなので、香穂子はひとりで練習をするつもりでいた。

 吉羅は今日も休日出勤だった。
 だが最近は、この休日出勤も悪くはないと思っている。
 午後に日野香穂子と過ごすという楽しみが出来たから。
 これ以上に楽しいことはない。
 今日も楽しみにしていたが、朝から香穂子が仲間たちと楽しそうにやってくるのが見えた。
 今日は仲間たちと共に過ごす予定なのだろうか。
 そう思うと、何処か切ない。
 自分よりも遥かに年下の少女に本気になってしまうなんて、思ってもみないことだった。
 それゆえに、こうして誰か別の男と過ごすのかと考えるだけでも胸が痛かった。
 冷静になれと自分に言い聞かせても、なかなかそうはなれない。
 そこが厳しいところだ。
 吉羅は溜め息を吐くと、仕事に熱中し始めた。

 香穂子はと言えば、練習が終わり、全員を見送った後、ホッと溜め息を零す。
 これから臨海公園に出れば、吉羅に逢えるかもしれない。
 そんなことを考えながら歩いていると、校舎から出て来た吉羅と出くわした。
「あ、あのっ! こんにちはっ!」
「ああ。日野君、練習の帰りかね」
 香穂子がドキドキしているのに、吉羅はいつも以上にクールに見える。
「皆とアンサンブルの練習をしていました。午後からは私ひとりなので、臨海公園にでも足を延ばそうとしていたところです」
「そうか」
 吉羅はフッと笑うと、こちらがドキリとするような優しい瞳で見つめてくる。
「日野君、魚は好きかね?」
「そう言って水族館ですか?」
 香穂子が笑いながら言うと、吉羅もまた思い出したかのように笑ってくれた。
「そうじゃないよ。今度は、食べる魚だ。来るかね?」
「もちろんです」
「じゃあ行くか」
 吉羅は、大きなストライドで歩きながら駐車場へと向かい、香穂子もその後を着いていく。
「どうぞ」
 何度目か解らない程の助手席。
 香穂子にとっては、最高の場所でもある。
 ゆっくりと車に乗り込んで、シートベルトをする。
 吉羅は香穂子の様子を確認すると、直ぐに車を出してくれた。
 少しずつ陽射しがキツくなっていく季節。
 サングラスが欠かせないようで、吉羅はさりげなく掛けて運転に集中する。
 サングラス姿の吉羅を見つめると、ときめきが全身から溢れてしまう。
 なんて素敵なのだろうかと、まるで俳優でも見つめるような気分で、見とれてしまった。
 いつものようにその表情が見えないのは残念ではあるが、それでもまた新しい発見があるから嬉しい。
「どうしたのかね?」
 香穂子の視線に気付いたのか、吉羅がじっとこちらを見てくる。
 サングラスの向こう側にある瞳に帯びる表情が分からなくて、香穂子はいつもよりも落ち着かない気分になった。
「何でもないです…。だけど、吉羅さんを少しでも見ていたい…なんて、思っただけですよ」
 香穂子がはにかみながらもそれを隠して言う。
 僅かに吉羅の口角が上がったような気がした。
「今日のところは、焼き魚も刺身も美味しいところだ。ランチに行くよりは、ラフに飲みに行くのがぴったりだろうけれど、君なら喜んでくれると思ってね」
「私、素朴なところは大好きなんです。理事長が連れて行って下さるところは何処も美味しいですから、私としてはとっても楽しみにしているんですよ」
「期待に充分応えられると思うよ」
「何だか私、餌づけされている動物みたいですね」
 香穂子が思わずくすりと笑うと、吉羅もフッと唇を綻ばせた。
「…未来の有名ヴァイオリニストさんには先行投資をしなければならないからね。株の世界でも同じだ。ある程度の先行投資は必要だ。そうでないと大きな利益には繋がらないからね」
「私は株投資と同じですか?」
 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅はふと何処か甘い笑みを浮かべた。
「…こんなにも私を癒してくれる株はないがね」
 ドキリとするような言葉をさらりと言われてしまい、香穂子は飛び上がってしまいそうになる。
 甘い緊張で耳まで熱くなり、落ち着かない。
 腰が浮いてしまう始末だ。
 いつもならば景色と吉羅の運転する姿を同時に楽しむというのに、今日は楽しむ余裕なんてない。
 吉羅に視線もこころも釘付けになってしまっていた。

 車は三浦半島近くの店に停車した。
 穴場と言えるだけあり、何処かこじんまりとしている。
「ここの魚は本当に美味しいから」
「楽しみです」
 香穂子は吉羅を見上げながらゆっくりと微笑んだ。
 店の暖簾を潜り、海が見える端の席に座る。
 女性たちがちらちらとこちらを見ているのが解る。
 きっと吉羅と香穂子が、余りにもアンバランスからなのだろう。
 いつか吉羅の横にいても釣り合いが取れると思われるような女性になりたい。
 香穂子の密かな目標だ。
 吉羅が選んでくれた魚を食べながら、香穂子は表情を綻ばせる。
「美味しいです! 本当に! お魚大好きですから、凄く嬉しいです」
「魚好きだというのは、私と同じだね。君にはしっかりと英気を養って頑張って貰わないとね。アンサンブルコンサートも近いことだしね」
「出来る限りのことをして頑張ります。頑張るというよりは、楽しいんです。ヴァイオリンを弾けるだけでも、私には楽しいことだから、頑張る感覚はないんですよね」
 香穂子はあっけらかんと明るい太陽のような笑顔で言うと、アラ煮を美味しく頬張った。
「…ヴァイオリンを弾けるだけで…楽しい…か。かつて君と同じことを言っていたひとを、私は知っているよ…。だが、ヴァイオリンの為に、総てを犠牲にして良いわけじゃない」
 吉羅の整った眉間に、綺麗に皺が寄せられる。
 かなり厳しい想いを抱いているのは確かだ。
「…だから君も、ヴァイオリンだけではなくて、他に自分を支えてくれるものを探すんだ。沢山そのようなものを持っている人間のほうがより強いのだからね」
 吉羅は低い声で呟くと、悔しげに唇を噛み締めた。
 未だに吉羅にとっては、姉の死が強い影響を与えているのだろう。何処か厭世的なところがあるのもそのせいなのかもしれない。
「ヴァイオリンに燃えあがり、そのまま燃え尽きてしまうような人生を、私は君には送って貰いたくはないんだ。…だから、君もヴァイオリンの幅を広げるという意味においても、様々なものに目を向けて、夢中になるんだ…」
「…はい…」
 吉羅の横顔を見ていると、今にも泣きそうになる。
 香穂子は吉羅を見つめながら思う。
 いつか。吉羅のこころを癒して、共にいることが出来る関係になれるだろうかと考えてしまう。
 そうなれれば良いのにと、思わずにはいられなかった。



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