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カーラジオから、セピア色をしたイベット・ジローのシャンソンが流れてきた。 懐かしいようにも、感傷的にも聞こえる。 嫌な曲だ。 自分の力ではどうにもならない過去を思い出させて、胸が悪くなった。 あなたが欲しい。 ふざけるな。俺は誰もいらない。 苛立たしく思いながらも、ラジオを切ることが出来ない自分に、吉羅は腹を立てていた。 思い出が詰まり過ぎていて、こんな曲はいらないとすら思う。よりによって命日にこんな曲だなんて、全くふざけている。 息が詰まりそうになったところで曲が終わった。ホッと一息つくと、煙草を唇に押し込める。大学生の頃から同じ煙草を吸っている。まるで空気のような存在だ。 また嫌なメロディが流れて来た。 今度は、シャルル・アズナブールのバージョンだ。 眉間深い皺が刻まれる。なのにスイッチを切る動作が出来ない。 男のバージョンと女のバージョンでは、歌詞が些か違う古びたシャンソンは、最愛の姉が愛した曲だった。 この日だからこそ、あんなものが流れているのかもしれない。 命日。あんなに若く散るとは思わなかった姉。総てを奪い去った音楽などいらない。 教会に車を停めると、何だか騒がしい。 星奏学院の生徒たちが大挙して教会に駆け付け、バザーを盛り上げている。 こんな日にバザーをするなんて、全く迷惑な話だ。姉は静かに眠りたいと思っているに違いない。 …いや。本当はこのような賑やかな雰囲気は大好きだった。昔の自分も。 だが、そんなものはとうの昔に嫌いになった。あんなものは非効率的だ。 教会の敷地内に車を停めると、バックシートから花束を取り出した。 賑やかな喧騒から、吉羅は背を向けると、墓地に向かって真っ直ぐ歩こうとした。 ふと視界に懐かしい姿が入って来た。 金澤。吉羅のこころを預けることが出来る音楽科の先輩だった。 ファータに選ばれた音楽コンクールで意外なほどに気があい、ふたりで過ごした賑やかな時間。 その後、音楽はふたりに試練を与え、金澤はそれでも音楽を捨てず、吉羅は音楽を捨て去ってしまった。 相変わらずな飄々とした雰囲気に、吉羅は苦笑いする。 金澤を見ていると、青い時代の自分を思い出して苦い気分になった。 もう音楽なんていらない。 音楽なんてなくとも生きて行けるのだ。 そんなものに構っている時間も、こころの隙間もないはずだ。 吉羅は、まるで音楽に背を向けるかのように、懐かしい金澤に背を向けた。 「金澤先生、上手くいってホッとしました!」 明るく耳障りの良い声に、吉羅は惹かれるように振り返る。 白いドレスに身を包んだ、愛らしくも凛とした雰囲気の少女が、ヴァイオリンを片手に金澤と話をしている。 音楽を純粋に愛し、希望を持っている者の視線だ。 かつてとても身近なところで見ていた瞳。あの瞳に憬れて、音楽を始めたのだ。 なのに今はもういない。 久し振りに見た音楽を愛する純粋なまなざしに、吉羅のこころは、矢に射抜かれたような痛みが滲む。 懐かしい痛みだ。 もう忘れ去っていたと思っていたのに、深い場所に閉じ込めていたことを改めて知った。 吉羅は髪を無意識にかきあげて溜め息を吐く。 なんて日だ。 姉が最も愛していた音楽がラジオから聞こえ、その瞳と同じ輝きを持つ少女に出会うなんて。 不意に携帯が鳴り、吉羅はそれに渋々出た。 もう少しあの輝く瞳を見ていたいと思っていた自分に苦笑いしながら、淡々と電話に出た。 これが自分が選んだ道。 音楽に関わる道なんて、自らとうの昔に塞いでしまったのだから。 携帯電話を切ると、吉羅は感傷を振り切るように墓地へと向かう。 「香穂! 王崎先輩を見送りに行くよ!」 遠くから賑やかな声が聞こえる。 香穂。その名前が何故かこころに深く残った。 音楽に関わることなんて、もう二度とはないと思ってはいたのに、まさか星奏の再建に関わることになるとは思わなかった。 開け放った応接室の窓からは、秋のからりとした風が吹き込んでくる。 心地好いと思った矢先、風に乗って下手くそなヴァイオリンの音色が聞こえてきた。 聞きたくはないと思っていたのに、どうしてか耳についてしまう。温かな音色は遠い昔に消えてなくなってしまった泡沫の音色を思い出させる。 二度と思い出したくない。なのにもっと聞いていたくなる。 もっとその音色に近付きたくなる。 不思議だ。 忙しくて疲れてしまった躰を癒してくれるかのようだ。 星奏の財務状況は思った以上にひどく、何か手を打たなければ、廃校は免れないだろう。 深夜まで財務状況に目を通した後、応接室を借り切って、状況の分析をしている。 疲れて気分転換にと開け放った窓から、こんなにたどたどしい音を聞くとは思わなかった。 「…ドヘタクソ…」 吉羅は煙草を唇に押し込めると、火をつける。 下手くそな演奏なんて煙草の味を不味くするだけだというのに、不思議と美味しく感じられる。 奇妙な音色だ。 関わらない方が良いと、本能が警告をしているというのに、つい誰が弾いているか見たくなってしまった。 少しだけ窓辺に寄って、視線を下げる。 すると普通科の制服を着た女子生徒が、ヴァイオリンを懸命に弾いているのが見える。 音楽のエリートが集まる星奏で、こんな下手くそな演奏を聴かせるなんて、余程骨があるとしか思えない。 それか余程の馬鹿か。 「香穂!」 名前を呼ばれたのか、ヴァイオリンの生徒は、演奏をぴたりと止めた。 香穂----ついこの間も、その名前を聞いたような気がする。どこでだか定かではないが、こころが妙に騒ぎ出す。 自分に必要な人間の名前以外は覚えない主義なのに、不思議とこの名前だけは覚えていた。 香穂。 まるで甘い花の香りがするかのような名前。 吉羅は耳障りの良いその名前を、こころの大切なところにそっと納めた。 生徒が授業を受けている間は、静けさが手伝いとなり仕事が大幅に進んだ。 いつもよりも煙草の本数は少なく、そして仕事の進み具合が違う。 あの妙ちきりんなメロディのお陰だろうか。 だがその考えは直ぐに打ち消した。 こんなに甘ったるい感傷に浸かっていたら、きっと何も旨くはいかないだろうから。 一仕事を終えて、吉羅は長ソファに横たわった。 これからが長丁場だ。少し休憩をしなければならない。 軽く目を閉じたところで物音を聞いた。しかしそれを無視するように、吉羅は浅い惰眠を貪った。 「…香穂…っこっち、こっち!」 ほんの少しうたた寝をするつもりだったのに、いつの間にか本格的に寝入っていたらしい。 香穂。またこの名前だ。 教会に墓参りをしたあの日から、ずっと付きまとっていた名前だ。 香穂という名前に意識を戻されて、吉羅は導かれるようにゆっくりと目を開いた。 視界に映ったのは、普通科の制服に身を纏った少女だった。前向きに輝く瞳が印象的な、教会にいた少女。 そして。昼休みにど下手くそなヴァイオリンを奏でていた少女だ。 こちらが目を開いたのを驚くように見ている、 ダメだ。 このままこの瞳を見つめていたら、こころごと吸い込まれてしまう。 そんなことは出来ない。 もう音楽自体には関わらないと決めたのだから。 普通科で、ヴァイオリンを温かく弾くような生徒に関わってはならない。 吉羅の理性が本音を飛ばす。 「…君達、ここは生徒は立ち入り禁止だ。出ていきたまえ」 冷たく言い放つと、香穂と呼ばれていた生徒の瞳が好戦的に輝く。 本格的な出会いだった。 |