*Je Te Veux*

2


 人を寄せ付けない瞳が、ひどく印象に遺った。
 誰もいらない。
 そんな風に囁いているように思えて、こころが締め付けられた。
 あの瞳を見ていると、近付いてはならないような気になったり、近付かなければならないような気がしたり、とても複雑な気分になった。
 吉羅のことが脳裏にこびりついて離れなくて、香穂子は困り果ててしまった。
 折角のヴァイオリンの練習も、余りに身に入らない。
 金澤に頼まれてアンサンブルとして参加しなければならないのに。
全くと言って良いほど、上手く指先が動かない。
「…日野、どうした調子が悪いのか?」
 顔を上げると心配そうに見ている土浦の姿があった。
 抱擁力があるまなざしに、香穂子はほんの少しだけ溜め息を吐いた。
「…何だか調子が乗らないんだ。色々と考え過ぎなのかな?」
「余り考えずに楽しむことだけを考えれば良いんじゃないのか? 楽しい音楽はお前の専売特許だろ?」
 土浦の言葉を聞いているだけで勇気が溢れてきて、楽しい気分になる。
 香穂子は土浦に笑いかけると、しっかり頷いて見せた。
「ちょっと気分を変えて弾いてみようかな?」
「そうだ。その調子だぜ」
 香穂子は明るく「有り難う」と礼を言うと、頭を下げて練習場所の確保に向かった。
 練習室で練習をするのも良いが、こうして野外で解放感に溢れた練習をするのも好きだ。
 今日はもう少しのびのびとやってみたくて、香穂子は芝生の上を裸足になって、ヴァイオリンを奏で始めた。

 一息つきたくて、吉羅は書類をテーブルの上に置いた。
 今日は全く集中することが出来ない。
 真っ直ぐで意思が強い瞳を、久し振りに見てしまったから。
 素直さと意志の強さを兼ね備えた瞳を再び見ることになるなんて、思ってもみなかった。
 脳裏に何度もあの瞳が蘇る。
 頭から香穂子のまなざしを消し去りたくて、振り払うように煙草を口に押し込めた。
 窓を開けて、煙を出そうとしたところで、耳触りが何故か良い、下手くそなヴァイオリンが聞こえて来た。
 影を消し去りたいと思っていたというのに、無意識にヴァイオリンの主を探してしまう。
 視線に飛び込んできたのは、裸足でヴァイオリンを伸びやかに弾いている香穂子の姿だった。
 こちらが目をすがめてしまうほどに、きらきらと輝いている。
 音楽を自由に楽しみ、ひたむきに愛している姿だ。
 あんなひたむきさはとうに棄ててしまった。
 音楽なんて今の自分には楽しめない。
 なのにどうして、こうして下手くそな音に聞き入ってしまうのだろうか。
「…本気に下手くそだな…。だが、技巧を持った音楽科のなかで下手くそでも練習しようとする姿勢は、認めてやっても良いのかもな…」
 不思議な音だ。
 下手で下手でたまらないというのに、こうして引きつけられて止まない。
 忘れたものをもう一度手にすることなど有り得ないのに、こうしてこころは求めてしまう。
 いらない。
 本当にいらないんだ。
 なのにこころに語りかけてくるような温かい音色に惹かれて、こうして聞き入ってしまう。
 馬鹿だ。
 吉羅は煙草を吸い終えると、音と温かな世界から遮断するように窓を閉めた。

 仕事に目処が立ったところで校門へと向かうと、昔馴染みである金澤と、下手くそヴァイオリンの主が楽しげに話しているのが解った。
「おっ! 吉羅!」
「金澤さん…」
 先輩である金澤に声を掛けると、近くにいた少女が軽く会釈をした。
 生命力が漲った顔を見つめると、こころに鋭い針が刺さったようにチクチクと痛い。
 見つめていたことを悟られたくはなくて、吉羅は神経質に目をスッと細めた。
「失礼、私は名前覚えが悪いものでね」
 突き放したような声で言うと、香穂子は真っ直ぐとした汚れのないまなざしを吉羅に向けて来た。
「2年2組の日野香穂子です」
 きっぱりと清々しい自己紹介は、目の前の少女に似合っている。あどけない笑顔のなかに強い意志を持っているのが伺えた。
「吉羅、少し付き合えよ。日野、お前も少しなら時間は構わないだろ? 何、教師の俺が責任を持って送ってやるから」
 何を突拍子なことを言うのかと思いながら、吉羅は金澤を見た。
 昔から突拍子ないことをする男だった。何も考えていないように見えて、本当は深く考えているのが金澤だ。
 日野香穂子を巻込んだということは、何か思惑があるのだろう。
 先輩であると同時に、いい加減なおおらかさに何度となく助けられた吉羅にとっては、断るに断れなかった。
「解りました。生徒と逢うのは好ましくないとは思いますが、今回は特別に」
「おう。お前さんにも、今の星奏学院の状況を知って貰うにも、日野は最適な相手だからな。なあに、何事も、マーケティングリサーチがいるだろ? お前の専攻していた経済学とやらは」
 肩をポンと叩かれて、吉羅は溜め息を吐いた。
 こうして上手く巻き込むのが、金澤は得意なのだ。
「車で来ていますから、おふたりとも乗って下さい」
「ああ、有り難うな」
 金澤はニヤリと食えない笑みを浮かべたが、香穂子は戸惑っているようだった。
 結局、香穂子は車の中でも居心地が悪そうに、小さくなって乗っている。
 きっと困っているのだろう。眉を寄せて溜め息を吐く姿がミラーに写り込み、吉羅はひどくこころ惹かれていた。

 金澤がどうしても行きたいと行ったのは、横浜でも通好みで知られる音楽バーだった。
 かつて金澤がイタリアに留学へと向かう際に、ここで壮行会をやった思い出の場所だ。
 雰囲気が港町らしく外国のようで、ロマンティックに落ち着いている。
 早い時間であるせいか、客は随分とまばらだった。
 音楽バーであるために、今夜も生のバンドがやってきている。
 落ち着いた大人のためのバーというコンセプトのせいか、ジャズ、シャンソン、クラッシックが主流になっている。
 注文したのは甘くないアイスティー、香穂子はマンゴージュース、金澤だけはバーボンのストレートだった。
 香穂子はふたりの雰囲気に蹴落とされているようで、気まずそうにジュースを飲んでいる。ひとり制服だから浮いているとも感じているのだろう。
「…正直さ、お前さんが教育に関わるのは向いていないと思うぜ…」
 金澤は溜め息を吐きながら、厳しい口調で言う。
 そんなことは自分自身が一番解っている。何も教育に熱心に関わる気はない。
「叔父である校長に頼まれて仕方がなく、ですよ。…私は経済的な関わりを持つだけです。学院の教育方針に興味はありませんよ」
 硬い声で冷たく言いながら、吉羅はこれが本音であることを認めざるをえない。
「…経済的にね…」
 金澤が溜め息を吐いたところで、バンドのオーバーチュアが終り、演奏が始まった。
 途端に香穂子の瞳が、琥珀色のライトを弾いて、宝石以上に輝いてくる。
 香穂子の横顔を凝視せずにはいられない。
 綺麗だなどとこころが動かされるなんて、苦しいほどに甘い痛みがせり上がって来るなんて、全くどうかしている。
 一瞬の音を聴いた瞬間に、吉羅の背筋に嫌なものが走り抜けた。
 どうしてこの曲ばかりが耳に入る。
 感情を上手くコントロール出来ないほどにこころが震えた。
「先生、この曲は?」
 無邪気に香穂子が尋ねている。
 金澤はちらりと吉羅を見たが、視線を直ぐに上方に向けた。
「サティの“ジュ・トゥ・ヴ”----あなたが欲しい。元々はシャンソンで…、男歌詞と女歌詞がある。お前にはまだ早い世界だな…」
 金澤はカランとグラスの氷をわざと音を立てている。
「…綺麗な曲…。アンサンブルでやってみたいですね」
「そうだな、土浦あたりに手伝って貰え」
「そうします!」
 香穂子の生命エネルギーが溢れた笑みと、歌手が情熱的に歌う歌詞が、吉羅のなかでクロスオーバーする。

 私は泣かない。
 私は少しも悔やまない。私の望みはたったひとつだけ。
 あなたのすぐそばにいて、一生を送ること。
 ただあなたが欲しい…。

 なんて情熱的。
 なんて感傷的。
 あなたが欲しい…。
 俺は誰もいらない。
 もう誰の愛も必要としないんだ…。

 吉羅は切迫する切ない想いを振り払うように、ただ目を閉じた。





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