*Je Te Veux*

3


 歌詞の意味なんて、全く分からなかった。
 だが、すぐ近くにいた吉羅の横顔が、とても厳しく冷たかった。
 綺麗な横顔をしているせいか、冷酷な動揺を助長しているようにしか見えない。
 綺麗なメロディ。
 まるで春風が吹き渡るような爽やかさがあるのに、どうしてそんなにも哀しそうな顔をするのだろうか。
 どうしてこちらが泣きそうになるような顔をするのだろうか。
 香穂子は胸がいっぱいになって、涙がこぼれ落ちそうになるのを感じながら、残りのメロディを聴いていた。

 車で金澤と吉羅に送って貰い、香穂子は丁寧に礼を言った。
「…親御さんに怒られたら、俺のせいだって適当に言っておけ」
「はい、有り難うございます」
 香穂子は金澤に笑い声を上げながら礼を言ったあとで、車のなかにいる吉羅をちらりと見た。
 相変わらず不機嫌の権化のような顔をしている。
「吉羅さんも有り難うございました」
 精一杯に微笑んで香穂子が挨拶をしても、吉羅は笑うどころか益々不機嫌そうな顔をする。
 失礼過ぎると、香穂子は思わずにはいられなかった。
「では、さようなら、先生。吉羅さんもついでにっ!」
 香穂子が強い調子で言うと、金澤は噴き出してしまった。
「日野はおもしろいなあ」
「おもしろくないですよ、全く」
 香穂子は金澤と吉羅を睨み付けると、そのまますたすたと家のなかに入った。
「何よっ! すごーく失礼なひと」
 感情に任せてそこまで言ったあとで、香穂子は大きく溜め息を吐いた。
「…だけど、寂しそうなひとだったな…」
 小さく呟くと、香穂子は泣きそうになる。
 吉羅の哀しさが移ってしまったような気がした。

「金澤さん、家はどちらです?」
「ああ。日吉のアパート」
「解りました」
吉羅は冷静になろうと深呼吸をすると、ハンドルを握り直す。
「…やっぱり、日野に声を掛けて正解だったな」
 金澤は何かを楽しんでいるように笑い、意味ありげに吉羅を見つめる。
「私はどうでも良いです。一生徒のことなど」
 硬い声で吉羅は言うと、ひたすらクールな表情で真っ直ぐと目の前を見る。
「まあ、学院の生徒と関わるのは悪くないだろう?」
「私は生徒と関わりを持つことはありませんから」
「美人さんが言うと、流石にかなりキツくなっちまうな」
「何を言っているんですか、金澤さん」
 のらりくらりと楽しそうに言う金澤に、吉羅は冷たく一瞥を投げた。
「もっと生徒にこころを開かないと、経営なんて上手くいかないぜ」
「まあ、生徒は大切な客ですからね…」
 ビジネスライクな吉羅に苛立つように、金澤は煙草に手をかける。それを吉羅は見逃さずに見ていた。
「金澤さん! そんなことをして良いと思っているんですか!? あなたにとって喉は大切な場所でしょう!?」
 音楽科時代、コンクールで切磋琢磨しあい、お互いに腹を割って話せる間柄だった。だからこそ、金澤がどれほど喉を大切にしていたのか、吉羅はよく解っている。それゆえに声を荒げずにはいられなかった。
「…過去の話だ…吉羅…」
 金澤の声が不意に愁いを帯びる。
「しかし…」
「…お前さんにとっても、俺にとっても、音楽で夢見ていたことは過去の話だ…。俺は音楽の良さや素晴らしさを捨て切ることが出来ずに、こうして音楽教師の道を選び、お前さんは完全に関わることを止めてしまった…。ただ、それだけの話だ…」
「金澤さん…」
 金澤の遠い過去を懐かしむような瞳は、かつてあった絶望に似た光が拭い去られていた。
 吉羅はそれを感じ取りながら、複雑な想いになる。
「…なあ、俺も色々とあったし、勿論、お前さんにも色々とあった…。俺だってあんななかで、一度も音楽を恨まなかったか、嫌いにならなかったかと問われれば、嘘になると思う。しかしな…」
 金澤は煙草を箱の上でリズミカルに叩く。もう吸う気持ちなどないとばかりに。
「今年あったコンクールで、普通科のしかもズブの素人である日野がコンクールに出たことで、あいつのひたむきな真っ直ぐさに、正直言って、自分を省みた。俺は随分つまらないことに拘ってばかりいて、音楽が本来持っていた楽しさを忘れていたなって、改めて感じた…。日野の…、いや、コンクールに出た生徒の熱さに、俺は目を覚まされたよ。今は純粋に音楽に取組むことが出来る…」
 金澤は深い笑みを浮かべると、静かに煙草をケースのなかになおした。
 吉羅は、話している金澤の横顔をちらりと見つめながら、不思議な幸福感を抱いているのを感じた。
 音楽に対する真っ直ぐな情熱。
 そんなものはとうに忘れて、もう必要ないと思っていたはずなのに、どうしてこんなにも金澤が羨ましいと思うのだろうか。
 吉羅は溜め息を吐くと、こころのバリアを張るように、真っ直ぐと前を見た。
 学院に私情は挟まない。
 学院はあくまでビジネスだ。
 そこまで冷徹に考えながらも、どこかこころが納得してはくれなかった。
 金澤の良いかげんなナビゲーションだったが、何とかアパートへとたどり着くことが出来た。
「有り難うな。酒に気持ち良く酔えたせいで、今日は何時になくおしゃべりになっちまったな」
 金澤は苦笑いをしながら、吉羅の車から出て行く。
「一度、日野の音を聞いてみろ。あいつは技巧だとか一切考えない分、良い演奏をする。暖かい音色を響かせてくれる」
「解ってますよ…」
 吉羅は昼間の演奏を思い出しながら、僅かに口角を上げた。
「但し、下手くそですけれどね」
「…ああ。だがそれを補うほどの力をあいつは持っている。一度、フルコースで聞いてみると良い」
「まあ、そのうちに。では」
 金澤に軽く挨拶をすると、吉羅は静かに車を走らせる。
 金澤の言葉がしっかりと印象に張り付き、吉羅の頭のなかで、いつまでもこだましていた。

 翌朝、最近の定番な仕事場である応接室に入り込み、吉羅は仕事を精力的に始めた。
 星奏学院の財務状況は正直言ってかなり悪い。
 このまま感情論では処理が出来ないことは、吉羅が一番解っている。
 学院解体を避けるには、郊外への移転も考えなければならないだろう。
 この広大な土地の一部を売却すれば、財務状況の健全化をはかることが出来る。
「…冷静に対処しなければならないということか…」
 いつものように冷徹に厳しい目を持って処理をすれば良い。
 それは解っているというのに、どうしてこんなにこころが揺れるのだろうか。
 朝からまた下手くそなヴァイオリンが聞こえて来た。
 耳障りなはずなのに、ずっと聞いていたいと思うのは、どうしてだろうか。
 きっと音楽に対して素直な音だからに違いない。
 これほどまでに素直な音は、なかなかお目にはかからないから。
 ふと新鮮な空気を吸うふりをして、窓辺に佇む。
 もっとこの温かな音を聞いていたい。
 もっとこの優しい音を聞いていたい。
 懐かしいこころを癒す音に感傷的になりながら、吉羅はいつしか夢中になって耳を傾けていた。
 ノックされたのにも気付かないぐらいに夢中になっていたらしい。
 二度目のノックでようやく気付く始末だった。
「吉羅、随分と早いな」
 顔を出したのは金澤だった。
「金澤さんこそ」
「お前さんが日野の支離滅裂なヴァイオリンを聞いているのが見えたからな」
 金澤は吉羅を気遣うような大きく切ないまなざしで見つめる。
「…お前さんもさ、もう少し力を抜いたほうがいいんじゃねぇか? 俺が偉そうに言える立場じゃないけれどな」
「金澤さん、私は」
「おっと、授業の準備があるからな。俺はこの辺で。じゃあな。あ、創立祭には来いよ。日野が演奏する」
 金澤は自分が言いたいことを言ってしまうと、そのまま応接室を出てしまった。
「ったく、あの人はいつもああだ…」
 吉羅は溜め息を吐くと、煙草を口にする。
 窓の向こうにいる香穂子を見つめながら、大きな溜め息を吐いた。





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