*Je Te Veux*


 創立祭なんて馬鹿げている。
 内側にPRをして何になるというのだ。
 もっと外部に開放し、星奏学院の活動をPR出来る絶好のチャンスだというのに、全く馬鹿げていると思わないのだろうか。
 学院を卒業してからというもの、一度として創立祭に出たことはなかった。
 今年は理事である以上、出なければならないだろうが、それも面倒だとずっと思っていた。
 なのにどういうことなのだろうか。
 創立祭を楽しみにしている自分がどこかにいて、それを糧にしている自分がいるのも確かだ。
 いつも頭のなかで響き渡るのは、日野香穂子が奏でる音楽で、どのような名演奏にもない大きな包容力がある。
 本当にどうかしている。
 あんな子供が奏でる音楽にどうしてこころが惹かれるのだろうか。
 音楽科のエリートでもない、普通科の小娘に。

 吉羅は溜め息を吐くと、また再建計画策定のための資料に目を通した。
 一番はこの場所から移転することだが、それは物理的なリスクが伴う。
 生徒たちの間でそのような噂があることを吉羅は知っているが、学校関係者か、コンサルタントあたりの馬鹿が噂にでもしたのだろう。
 移転はないにしても、音楽科と普通科は離してしまったほうが良いかもしれない。
 だがそうなると日野香穂子はどうなるのだろうか。
 また、日野香穂子だ。雑念ばかりが頭にこびりついて、仕事が捗らない。
 日野香穂子ならばきっと、現状のままでどうにか出来る術はないかと、希望するに違いない。
 そこまで考えたところで、吉羅はハッと息を飲む。
 どうしてこんなにも日野香穂子のことばかりを考えてしまうのだろうか。
 相手はただの普通科生徒ではないか。
 頭のなかの酸素が飽和状態になってしまい、新しい空気を吸い込むために屋上へと出ることにした。
 ここはあまりひとがいないから良い。ただ、感傷的過ぎる昔の落書きを見つけてしまうと、切ないような苦しいような気持ちになってしまうが。
 誰もいないことを良いことに、吉羅は煙草を口にした。
 こういったときに屋外で煙草を吸うのは、ある意味気分がスッキリとする。
 紫煙を宙に吐き出していると、たどたどしいヴァイオリンの音色がまた聞こえてきた。
 “流浪の民”を奏でているのは直ぐに解った。以前に比べると技術面が良くなっている。
 正直、吉羅は驚いた。
 香穂子の上達の早さは目を見張る。こんなに短い間にここまで上手くなったプレーヤーを今まで聞いたことがなかった。
 もし日野香穂子がこのままの勢いで上手くなったとしたら、とてつもないヴァイオリニストになるかもしれない。
 音の持つ深みや大きさに技術が加われば、月森蓮よりも凄いヴァイオリニストになるだろう。
 音楽をやっていた手前、才能の有無やどれほど大きくなるかは、誰よりも解る。
 吉羅は更に耳を澄ませた。
 目を閉じて聴いていると耳心地が良いのとともに、躰がリラックスしていくのを感じる。
 音色にこころが強く惹かれて、吉羅は流されないように踏ん張ることしか出来なかった。
 ヴァイオリンが奏で終り、温かな風が消えてしまい、吉羅はゆっくりと目を見開く。
「……!」
 目の前にいたのは日野香穂子。なのに、懐かしき面影と重なり合う。
「暁彦…!」
 柔らかい声が脳裏に響き渡り、吉羅は心臓が止まってしまうかと思った。
 姉の姿の幻影と香穂子の姿が重なる。
 懐かしき姉の面影を宿した少女。
 姿形は全く似ていないはずなのに、どうしてこんなにも面影が重なるのか。
 吉羅は想いを振り払うように溜め息を吐くと、香穂子から視線を逸らせた。
「気分転換ですか?」
「まあ…そんなところだ…。私が気分転換をしてはおかしいか?」
 動揺を決して知られてはならない。
 吉羅はわざと冷たく言ったが、内心は胸がキリリと気持ちが悪いほどに痛んでいた。
「いいえ、気分転換は素敵だなって思っているんですよ。私もヴァイオリンを弾くときに、気分転換をすれば良くなるのかあって思って、色々とやるんですよ? 例えば、裸足になって大地の力を感じながら演奏したりなんかして」
 まるで鈴が鳴るように笑うと、香穂子は爽やかで優しいまなざしを吉羅に向ける。
 そんな瞳で見ないで欲しい。こころが大きく揺れて、胸の奥が焼け付くように切ない痛みに支配されてしまうから。
「…知っている…。君は様々なところで弾いているからな…。この間は、応接室の前で裸足になっていただろう?」
「ご存じだったんですかっ?」
 香穂子は真っ赤になりながら恥ずかしそうに俯いている。年相応の初々しい反応に、吉羅のまなざしも僅かに緩む。
「ああすると良い音が出るかなあっと思ったんです」
「君らしいな…」
 話していても奏でる音と同じように柔らかく温かな雰囲気に、吉羅も思わず微笑んでしまった。
この柔軟さが、成長を支えているのだろうか。
「聴いていて下手くそだって思われませんでしたか?」
「まあな」
 くすりと笑うと、吉羅は香穂子を見つめた。
 香穂子と一緒にいるだけで、こころまでもがのびのびとする。
 この少女と一緒にいると、汚れた自分も浄化されるのではないかと思ってしまう。
「吉羅さん、あの、創立祭に来られますか?」
 香穂子が期待するようにこちらを見つめてきた。
 まるで子犬のような愛らしい瞳をしている。
 純粋、無垢なまなざしに、吉羅はこころを甘く乱される。
「…善処しよう…」
 苦悩が瞳に宿る。
 音楽なんてとうの昔に捨て去ったもののはずなのに、香穂子を見ていると、再び愛してしまうのではないかと、錯覚すらしてしまう。
「あ、そろそろ行かなきゃ。アンサンブルを合わせる約束をしているんです」
 香穂子はヴァイオリンを大切に抱えると、吉羅に向かって深々と一礼をした。
「創立祭に来てくださいますね。待ってますから! 一生懸命、頑張って練習しますから、だから必ず見に来て下さいね!」
 香穂子は何度も強く言うと、慌てて屋上から出ていってしまった。
「慌ただしいな…」
 吉羅は甘く溜め息を吐く。
 関わりたくないとあんなにも強く思っていたというのに、日野香穂子はいとも簡単に引きずり込んでしまう。
「…創立祭…か…」
 ひとりごちると、吉羅は煙草を唇に押し込める。
 かつて姉が演奏をした創立祭。あの頃は、非常に喜んだことを覚えている。
 遠い昔の、まだまだ幸せだった頃の話だ。
「…もう二度と戻らないはずなのに…」
 吉羅は紫煙を吐き出すと、遠い日々に思いを寄せていた。

 吉羅は珍しく金澤の元に向かった。
 創立祭の担当だと知ったからだ。
「…金澤さん、創立祭について何かインフォメーションペーパーのようなものがあれば、頂いても構わないですか?」
「ああ。構わないぜ」
 金澤は吉羅に紙切れを渡すと、意味深な笑みを浮かべる。
「お前さんがやる気になるのは、俺にとって良いことだと思うけれどな」
「何も興味がわいているということはないです。これも職務ですから」
 さらりと言うと、吉羅は紙切れを受け取る。
「…職務ねぇ…。頭の硬いヤツは、いくら絶世の美女でもモテないぜ」
「…金澤さん…、ふざけるのは止めて下さい」
 金澤は相変わらずへらへらと笑いながらも、洞察力の鋭い光を吉羅に投げる。
「…まあ…、何があったかは知らないが、お前さんがその気になるのは良いんじゃないか」
「理事として当然のことをしたまでです。失礼します」
 吉羅はいつものように無表情を装うと、金澤から離れる。

 別に、特別なことじゃない…。
 なのにどうしてこんなに惹かれるのだろうか。
 あの小娘に…。





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