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学院の創立祭には一度として訪ねたことはなかった。 切なくてエネルギーを消耗する想い出を今更蒸し返したくなかった。自分でもコントロール出来ない想いに 、吉羅は腹立たしくすら思えていたからだ。 なのに。ヴァイオリンの技術もまだまだ発展途上の少女の音に惹かれて、出席する気になってしまった。 音楽なんて総てを奪う忌まわしいものとしか思えなかった。明るい陽射しのようだった幸せの総てを奪ったものであったから。 理事の地位に着いても、音楽には関わらずに生きて行こうと決めていたのに。 吉羅はふらりと音楽科の屋上に行き、横浜の空を見上げた。 秋の空はクリアーで高く、どこか胸を締め付ける青さがある。夏の大騒ぎから落ち着きを取り戻し、灰色 の季節に備えるためのノスタルジーを称えている。 だからこそこころにひどく語りかけてくるのかもしれない。 授業中の屋上をゆっくりと歩く。 かつて金澤と共にコンクールに参加した際書き記した落書きもまだ残っている。 青臭かった時代のまま取り残されたそれは、吉羅や金澤の人生を見守ってきたようで胸が痛い。 「…何だ、先客があったか」 何も考えていないようなあっけらかんとした声に振り向くと、金澤が煙草を片手にこちらを見ていた。 「何だ、懐かしいもん見ているな」 金澤は一瞬痛みを堪えるように目を細めた後、穏やかな笑みを浮かべた。 「何も知らないことほど罪なことはないと思っただけですよ」 硬い金属のような声を出すと、吉羅は落書きに背を向けた。 「な、吉羅よ。確かに音楽でお前の人生は変わってしまったかもしれない。だが、音楽でまた、救われることがあるかもしれない…」 金澤はまるでひとりごちているかのように吉羅に語りかける。 「…俺は、そうなるような気がする。お前のこころを救ってくれるのは、音楽に違いないって思っている」 音楽に棄てられ、音楽に救われた男の言葉は、何気ない雰囲気で語ってはいても、どこか深みがある。 正直、こころ揺れる。だがかたくなな自分が、まだ大きな壁ではだかっている。 「…それはありえないですよ」 吉羅は無表情なままで、金澤に答えると、その顔を見ないように務めた。 「…日野香穂子…とか…」 日野香穂子の名前を出され、吉羅のこころは激しい自信が起こったかと思わせるほどに揺れる。 再び音楽への興味の種を蒔いたのは、日野香穂子だ。 下手くそなのにどこか温かで優しい音色に、眠っていた音楽への想いを揺り起こされそうになっているのも事実だ。 だからこそガードを張らなければならないと思っているのに、そうはなれなくなっている。 「たまには日野みたいに素直になれや。ま、考えて行動するのはお前さんだけれどな」 金澤は煙草を口に押し込めると、紫煙を宙に大きく吐く。 煙草のことについて注意出来ないほどに、日野香穂子の音でいっぱいだった。 放課後になると、生徒達のざわめきで忙しなくなる。 吉羅は仕事の手を止めて、窓辺に佇んだ。 そろそろ日野香穂子が練習を始める時間だ。それを一日で一番楽しみにしているなんて、自分でも驚いていた。 創立祭が近いせいか、今日はアンサンブルの仕上げに磨きをかけているようだった。 他の音が混じりあっていても、直ぐに日野香穂子の音だけは聞き分けることが出来る。 確かに誰よりも技術的にはまだまだかもしれない。だが、誰にも出せない奇蹟の音色を奏でることが出来る。 この音に触れてから、こころが昔にタイムスリップすることが多くなった。 素直にいられた頃のこころを思い出させてくれる。 だからこそ日野香穂子は自分にとって、最も危険な人物だった。 仕事の目処をつけ、吉羅が学院を出ようとしたのは、6時すぎだった。 これから都内に戻り、海外市場の投資状況を見極めなければならない。 激務なはずなのに、こうして疲れなく働いていられるのは、香穂子のヴァイオリンのお陰かもしれなかった。 吉羅が駐車場に向かって歩いていると、日野香穂子が大急ぎで走っているのが見えた。 吉羅の存在などに気付かず走っていたからか、いきなりこちらに向かって躓いてきた。 「…おっと…!」 腕で簡単に受け止めた躰はとても柔らかくて、甘い熱さを持っている。 電流が走ったかのように吉羅の躰が揺れた。 「校内では走らないようにと習わなかったか?」 わざと落ち着きを払った声で言うと、香穂子は震える子犬のようにすまなそうな顔を向けてきた。 「すみません。大事なプリントを忘れて、焦っていたんです」 香穂子は動きたいのに動けないとばかりに、吉羅の顔を見上げている。 無意識なレベルで香穂子を捕らえて離さないようにしていた自分に、吉羅は息を呑んだ。 さり気なく香穂子から離れると、落ち着かせるために目を閉じる。 「気をつけて」 「はい。だけどヴァイオリンは無事ですから」 屈託なく笑った香穂子に、吉羅は更に胸を締め付けられる。こちらがこんなにも拒んでいるというのに、日野香穂子は真っ直ぐと素直にこころのなかに入り込んで来る。 誰もいらない。 だからこそ誰ひとりとして寄せ付けなかったのだ。 最愛のものを失う苦しみは、もう沢山だったから。 こちらがいくらガードを強く張っても、日野香穂子はお構いないとばかりに入ってくる。 それが苦しかった。 「ヴァイオリンが無事なら何よりだ」 わざと冷たく言い放つと、吉羅は香穂子の視線から逃れた。 「あ、あの。創立祭には来て下さいますか?」 香穂子はすがるような目で思い詰めたようにこちらを見つめてくる。 「…気が向いたらな…。私も忙しいのでね…」 吉羅はキッパリと言い放つと愛車のフェラーリへと向かう。 香穂子の瞳が脳裏に焼き付き、その温もりが躰に染み付いている。 切なく熱い感情が、吉羅を苦しめた。 私は誰もいらない。 ひとりで生きて行くのが一番幸せだ。 自分に言い聞かせながら、吉羅は激しく動揺していた。 どうして自分はここにいるのだろうと、吉羅は思った。 音楽など寄せ付けなかったというのに、こうしてまた触れようとしている。 創立祭に出るのは理事としての務めだと言い訳をしながら、講堂へと向かっていた。 不意に不穏な話し声が聞こえ、吉羅は足を止める。 「きゃっ!」 小さな悲鳴が聞こえたかと思うと、誰かが倒れる音がした。 吉羅は嫌な汗が背筋に流れるのを感じながら、声が聞こえる方向へと向かう。 校舎の裏側に来たところで、音楽科の女生徒達が誰かを囲んでいるのが見えた。そこに倒れていたのは、紛れもなく日野香穂子だった。 静かな怒りが吉羅のなかで燃え盛り、手が付けられなくなる。 「…何で普通科のあんたが…」 「君達、何をしている」 吉羅は自分でもゾッとしてしまうほどの冷たい声で言い放つ。 女生徒のリーダー格が振り返るなり、吉羅を悔しげに睨んで来た。 嫉妬心に溢れた人間はなんて醜いのだろうかと思う。 「…やばいよ…っ、逃げようっ!」 吉羅が冷たいまなざしで睨み付けている間に、音楽科の女生徒たちは三三五五散らばっていってしまった。 残ったのは香穂子だけ。 「立てるか、日野君」 吉羅が手を差し延べると、香穂子は受け取らずに自分で立ち上がろうとする。 「大丈夫です。あれぐらい」 普通なら泣いてしまうだろうに、香穂子は逆に笑顔を見せている。 香穂子は自分で立ち上がろうとしたが、左足首を曲げた際に顔をしかめた。 「捻ったのか!?」 「大丈夫です」 「こんな時に強がりを言っている場合じゃないだろう!」 吉羅は直ぐに香穂子を抱き上げると、有無言わせぬまなざしで睨み付けたまま、医務室へと運ぶ。 「だ、大丈夫ですからっ!」 「黙りなさい」 吉羅はキッパリ言うと、医務室のドアを開けた。 「怪我人だ。左足首の応急処置とテーピングをすぐにしてやってくれ」 吉羅の勢いに押されて、保健医も頷くしかなかったようだ。 吉羅は香穂子を診療台に乗せると、保健室の端で腕を組んで治療を見守る。 保健医は吉羅に威嚇されてか、猛スピードで処置をした。 「出来ました」 「歩けるか、日野君」 香穂子は恐る恐る立ち上がったが、痛みを感じずに済んだようで、ホッとしたように笑った。 「有り難うございます。大丈夫です」 香穂子が無事に歩く姿を見て、吉羅は安堵の余りに溜め息を吐く。 「では私はこれで」 「吉羅さんっ!」 背中を見せた瞬間に香穂子に呼び止められ、吉羅は振り返る。 「有り難うございました。今日、来て下さって有り難うございましたっ!」 香穂子が頭を下げるのを肩越しに見た後、吉羅は保健室を出た。 |