*Je Te Veux*


 あの力強さも、さり気ない優しさも、総てがこころに下りて来る。
 立ち去る吉羅の後ろ姿を見つめながら、こころが締め付けられるほどに切なく、ドキドキしてしまうほどに甘い熱さに冒されているのを、香穂子は感じていた。
「香穂っ! どうしたのっ! 大丈夫!?」
 天羽が足下を見るなり、心配して香穂子に駆け寄ってきた。
「大丈夫だよ。吉羅さんに助けて貰ったから」
「吉羅さんに!?」
 天羽は息を呑んだあと、考え込むように腕を組んだ。
「…あの吉羅暁彦がね…。何だか、冷たいのか優しいのかよく解らなくなって来たよ。巷や私の印象は冷酷なのに、何か今日は優しい良いひとって感じがするし…。ホントにミステリアスというか、よく解らないや」
「…そうだね…」
 香穂子は吉羅の背中が見えなくなっても、まだ蜃気楼を見つめるように視線を送る。
 吉羅のことをもっと知りたいと思っていた。
 冷酷だと噂されながらも、本当は誰よりも温かなこころを持っているのではないだろうか。
 誰も寄せ付けない、必要としないと態度で示しながらも、本当は誰よりも必要としているのではないだろうか。
 香穂子は、もっと深く、本当の吉羅を知りたいと思っていた。

 アンサンブルの舞台に立ち、香穂子は瞬時で吉羅の姿を探す。これほど視力が良かったと思う瞬間はなかった。
 吉羅は席に着くことなく、講堂の一番端のドアの前でこちらをじっと見ている。
 いつものようにそのまなざしには何が映っているかすら、推し量ることが出来なかった。
 ここにいてくれる。
 音楽を聴いてくれる。
 それだけで今は嬉しかった。
 だからこそ、吉羅の底知れないガードに固められたこころに、少しでも呼び掛けることが出来ればと願いを込めながら、香穂子は演奏を始める。
 たった2曲。時間にすればそんなに長くはない。その限られた時間のなかで、香穂子は自分が持つ想いを乗せた。
 音楽への想い。
 そして。謎だらけの気になる男性への想いを。
 ここにいて有り難うございます。そんな想いを込めて、香穂子は曲を奏でる。
 沢山の想いを音に乗せてあのひとに届きますように。
 香穂子はヴァイオリンに総てを託した。

 一番後ろに立ちながら、吉羅は香穂子だけを見つめ、無意識に香穂子のヴァイオリンだけを聞き分けていた。
 熱いのに清らかで純粋で、音楽の楽しさや素晴らしさを教えてくれるような、素直で明るい音。
 いくら英才教育をしたとしても得ることが出来ない天性ののびやかさと温かさを持っている。
 懐かしいあの音に似ていた。
 かつて自分の総てであった音。
 かつて自分を癒してくれた、優しい母性が溢れる音。
 太陽の光のようなおおらかさと、総てを照らす光。
 眩いほどの光しか感じられない音だ。
 最もひとのこころを照らす光が音楽となって、こころに下りて来た。
 僅か2曲なのに。
 まるで素晴らしき交響楽を聴いた時のような充足感と、もっとこの音を聴いていたいという想いが、熱くたぎっていた。
 演奏が済み、客席からブラボーの拍手が鳴りやまないなか、吉羅はホールを後にした。
 きっと今の香穂子には、自分の称賛などなくとも、眩い観客の歓声があれば充分だろう。
 技術的にはまだまだ下手くそ。だが確実に短期間に伸びている。こんなスピードで伸びる人間など、今まで見たことはなかった。
 いくらファータに見出だされたかと言っても、それにしても早い。
 奇蹟だ。
 この奇蹟に気付いている人間が、この学院に何人いるだろうか。
 恐らくは日野香穂子の周りにいる人間の一部だけだろう。
 奇蹟を見ていたい。
 いつまでもあの少女が奏でる奇蹟を側で感じていたい。
 だが、それが出来ない自分に、吉羅は腹立たしく感じていた。
 本心とは裏腹に素直になることは、かなり難しかった。

 演奏が終わり、香穂子は高揚感の余りにぼんやりと客席を見つめていた。
 見つめる先にいるのは、吉羅暁彦ただひとり。
 今出せる自分の総てをだし切り、香穂子は呆然とそこに立ち尽くしていた。
 温かな拍手、称賛。
 先ほどまで険悪な雰囲気を持っていた音楽科の一部の生徒までが、惜しみない拍手を贈ってくれる。
 素直に嬉しかった。
 やるだけのことをやった後の充足感が、じんわりとこころのなかに染み込んできた。
 吉羅を見ると、拍手をしてくれてはいなかった。
 それどころか、称賛の拍手に背を向けて、ひとり講堂から出て行ってしまう。
 やはり力不足なのだろう。だが、今の自分が出来るのはこれが精一杯だった。
 これ以上の力を出し切ることは、今はまだ無理なのだ。
 客席への感謝の笑みが、切ないものへと変わってしまった。
 来てくれたことだけでも感謝しなければならない。
 だが、それ以上のものを要求してしまうところが、人間として弱いところだ。
 幕が下りると、香穂子は足を怪我したことなどを忘れて、走り出していた。
「ちょ、ちょっと! 香穂! どこに行くのよ!?」
 側にいた天羽が困惑するのも気にならずに、香穂子は駐車場に向かって走っていた。
 一瞬、足首にチクリとした痛みを感じたが、そんなことよりも、今は吉羅と話すことが大事だった。
 息を乱しながら走り、ようやく吉羅の後ろ姿を認めた。
 正に愛車であるフェラーリのドアに手を掛けようとしていた。
「吉羅さんっ…!」
 息が乱れた凄い声で名前を呼ぶと、吉羅暁彦はゆっくりと振り返った。
 一瞬、驚いたように香穂子を見つめる。しかしいつものクールビューティに戻った。
「…日野君か…。何の用だね」
 いつものように取り付く島のない声に、香穂子は僅かに怯んだ。
 だがここは堪えて、背筋を伸ばして吉羅を見る。
「先ほどのお礼を言いたくて。本当に有り難うございました!」
 深々と頭を下げてま、吉羅の表情は全く変わらなかった。
「理事として当然のことをしたまでだ」
 相変わらず素っ気無い態度に、香穂子は泣きそうになる。
「だけどきちんと演奏が出来たのは、吉羅さんのお陰ですから」
 香穂子は声を弾ませながら、明るく屈託なく言う。
 だが、吉羅はどこかうんざりとしたかのように溜め息を吐くと、不機嫌そうに眉を上げた。
「折角の創立祭だ。理事として失敗されては困ると思っただけだ」
 吉羅は真実を述べているのだろうか。だが、その言葉は余りに残酷で、香穂子のこころに兇器となって突き刺さってくる。
「…とにかく、お礼を言いたかったんです。有り難うございました」
 香穂子はもう一度丁寧に頭を下げる。
 吉羅はまるでそれを拒否するように愛車のドアを開けると、無言で乗り込んだ。
 総ての煩わしい感情は排除する。そんな雰囲気を漂わせながらも、何故だか吉羅の背中は寂しそうに見えた。
 吉羅の車が走り去るのを見送りながら、香穂子はようやく瞳に涙を滲ませる。
「…いたぁ…」
 足首もこころもひどく痛んだ。

 香穂子が見えなくなるまで立ち尽くしているのをミラーで確認しながら、吉羅はこころが締め付けられるような痛みを覚え、溜め息を吐いた。
 どうして素直になることが出来ないのだろうか。
 本当は素直にこころを動かされたと、言えれば良いのに。
 二度と純粋なこころを取り戻せないような気がして、腹立たしかった。





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