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早朝、学院に出勤をすると、駐車場に日野香穂子が待っていた。 緊張している横顔がどこか可憐に見える。 吉羅がゆっくりと愛車から降りると、香穂子が駆け寄ってきた。 「吉羅さんっ!」 香穂子はあまり自由の効かない足を軽く引きずりながら、爽やかな笑顔で吉羅の前に立った。 「おはようございます、吉羅さん! 昨日は本当に有り難うございました!」 深々と頭を下げると、香穂子は嬉しそうに笑った。 朝陽よりも眩しい光を湛えている香穂子に、吉羅は言葉を失った。 眩し過ぎて目を逸らせていた光を、久方振りにまともに見たような気がする。 心臓が大きく高鳴り、吉羅を苦しめた。 今まで否定し過ぎていた感情が、躰の奥底から込み上げてくる。 苦し過ぎて、呼吸すらも上手く出来ない。浅く呼吸をしたとしても、酸素不足を補うには足らなかった。 吉羅は苦しさを振り切るように一瞬間目を閉じたあと、氷のようなまなざしを香穂子に向けた。 冷酷さを装うのは慣れている。それは吉羅にとって戦闘服と同じような役割をしていた。 「有り難うございました!」 何度も頭を下げる香穂子に、吉羅はわざと冷たい男の仮面を被る。 「…私は当然のことをしたまでだ。それにあそこで失敗されては、学院としても困るものだからね…」 吉羅は先が鋭利な武器のような言葉を、わざと香穂子に浴びせ掛ける。傷付くのは解っていたはずなのに、それを止めることは出来なかった。 あからさまに傷付いた小鹿のような表情を香穂子は浮かべると、涙をいっぱい浮かべた瞳を誤魔化すように、もう一度頭を下げた。 「失礼します」 頭を上げて吉羅に背中を向ける時、朝陽に綺麗な宝石の粒が輝いたような気がした。 香穂子の華奢な背中を見つめながら、こころに麻酔がかかったように痺れてくるのを感じた。 今まで他人が傷つこうが、そんなことはどうでも良かった。 なのに今朝は、自分で自分を傷付けてしまったような気がする。 頭が痛くなるほどに切なくなるなんて、今までにはない経験だった。 大人のふりだけをして、本当は傷つきやすい子供の部分が遺っている。それを見て見ぬふりをしていたからこそ、その部分だけが成長せずに残ってしまった。 吉羅は誰にも聞かれないように、そっと大きな溜め息を吐くと、澄み渡った秋の空を見上げる。 眩しくてまた頭が痛くなる。 「…私は何をしているんだろうな…」 吉羅は煙草を口に咥えると、ライターで火をつける。 口のなかに広がった味は、こころと同じように苦かった。 応接室で仕事をしながらも落ち着かない。 香穂子の傷付いた瞳が意識に張り付いてしまい離れなかったからだ。 どうしようもないほどに繊細なこころを傷付けてしまったのだろう。 だがそうせずにはいられなかった。 ひとりの感情に流されていては、一流のビジネスマンとは言えないのだから。 吉羅は今日何度目か解らない溜め息を吐くと、気分転換をはかるために窓辺に立った。 腕を組み、窓越しに見つめる学院には活気が溢れかえっている。 不思議な事に、吉羅がいた頃にくらべると、音楽科と普通科の交流がかなり盛んなように見えた。 「…これも、日野香穂子が変えたということなのだろうかな…」 不意に日野香穂子の姿が視界に飛び込んできた。 まるで意を決したかのようなまなざしを、応接室の窓に投げ掛けてきている。 何事も諦めないという強い意志が現れた瞳を見るのが、とても心地よいことに気付いていた。 香穂子は精神統一をするように大きく呼吸を吸い込むと、ヴァイオリンを奏で始めた。 「………!」 それは吉羅にとっては決して忘れることが出来ない曲、“ジュ・トゥ・ヴ”だった。 かつて自分の世界を優しく明るくしてくれた唯一のひとがいた。 そのひとが奏で愛した曲。 聞く度にセンチメンタルな気分になるのが嫌で、自分からは決して聴くことはなかった。 その曲を、香穂子はこころを乗せて演奏をしている。 久しぶりにこころから揺さぶられたような気がした。 これ以上ないほどに胸が痛む。 今すぐ、あの切なくも明るい秋の空のようなメロディごと抱き締めに行きたい。 だが出来ない。 感情に素直になることなど、許されないような気がしたから。 香穂子のメロディをこれ以上聴いてしまえば、鉄壁の理性を崩しかねない。 吉羅は感情を振り切るように、応接室の窓をピシャリと閉じた。 今は感情に動かされている暇などないのだ。 冷酷に学院の利益を追求しなければならないのだから。 吉羅はソファに腰を下ろすと、煙草を口にした。 「普通科と音楽科を分離する…。それ以外に生き残る方法はないか…。少子化である以上は特色を出さなければ生きていけない…。私学の哀しいところだな…」 吉羅はパソコンに向かうと、今度の理事会での動議書を作成始めていた。 夕方になり、吉羅は応接室を出て、掲示板に目を止めた。 もう文化祭の季節なのかと、改めて気付かされる。 文化祭のプログラムのなかに、アンサンブルの演奏を見つけ、そこに香穂子を始めとするコンクールに参加したメンバーの名前を見つけた。 「…アンサンブルか…」 吉羅はかつて音楽を愛し、そして裏切られたやるせない記憶を思い出していた。 もう音楽などいらない。 そんなものがなくても生きていける。 なのに、今となってこんなにも音楽に飢えているなんて、考えられないことだった。 日野香穂子に逢わなければ、きっと思い出すことなどはなかった感情。 文化祭で奏でるアンサンブルを聴きたいなどと思うのは馬鹿げている。 なのに。近い場所であのメロディを聴きたかった。 誰よりも温かなメロディを。 中庭から駐車場に抜けようとすると、日野香穂子とばったり出会ってしまった。 「あ、吉羅さん」 香穂子は、まるで獲物に狙われた小動物のような顔を一瞬したが、直ぐにいつもと同じような明るい表情に戻った。 「足の具合は…?」 吉羅の一言に驚いたらしく、香穂子は戸惑いを隠せない様子だった。 「あ、大丈夫です。軽く捻っただけですから平気です。私、結構、丈夫なんですよ」 「…それなら構わないが」 香穂子が軽く足を動かして見せたので、吉羅はホッとした。 「…日野君、君は文化祭のアンサンブルコンサートに出る予定なのか?」 「はい。出る予定にしていますけれど…」 「そうか」 軽く受け流すように答えた後、香穂子が真っ直ぐな瞳をこちらに向けて来た。 「吉羅さん、文化祭のコンサートも来てくださいますか?」 懇願するように言われても、吉羅は即答することが出来ない。 そう出来ないほどに素直になることは難しかった。 無言でいると、香穂子が念を押すようにこちらを見つめて来た。 「吉羅さん、必ず、必ず来て下さい! 待っていますから!」 香穂子が強く懇願するのを聴きながら、吉羅は車に乗り込む。 行くと言いたい。 だが、素直に言い出すことが出来ない。 こうしてただ香穂子と話しているだけで、幸せを感じるのに、どうしてもその幸せに背中を向ける事しか出来ない。 「…私、頑張りますから、来て下さい」 囁かれた香穂子の声に、吉羅は抱き締めたくなる衝動を抑えこもうとしていた。 |