*Je Te Veux*


 相変わらず放課後になると、香穂子は一心不乱にヴァイオリンを弾いている。
 ヴァイオリンの技術も随分上がっているところをみると、やはりその才能は豊かなものなのだろう。
 だが吉羅の頭にふと言葉がかすむ。
 “遅れてきた子供”
 音楽は本人の天賦の才能は勿論のことだが、幼い頃からの努力や練習環境がものをいうことが多い。
 特にヴァイオリンはそれが現れる楽器だ。
 月森蓮のように英才教育を受けていなければ、なかなか世界には飛び立つことが出来ない。
 日野香穂子は幼い頃からの下地は全くない。それどころか、ヴァイオリンを始めたばかりなのだ。
 何処かで何とかしてやらなければ、きっと伸びるのが難しくなる。
 吉羅は香穂子がどうすれば月森たちの、所謂“音楽エリート”との溝を埋めることが出来るのか。そればかりを考えてしまう。
 手を差し延べるなんてことは、今まであり得なかったというのに。
 吉羅は自分の心境の変化に戸惑いを覚えながら、溜め息を吐いた。
 気分転換と自分のこころのなかを支配するもやもやを払拭するために、校内をゆるりと歩く。
 学院にいた頃は、本当に純粋だった。あの頃を思い出すことは極力避けていたというのに、何故かこうして 校内を歩くのが楽しみの一つになっている。
 不意に耳があの音を探し当てた。
 微かな音なのに、日野香穂子が奏でる音だけは、直ぐに聞き分けることが出来るのだ。
 その昔、姉の音を直ぐに聞き分けることが出来た時のように。
 香穂子は森の広場に移り、緑に聴かせるかのように音を奏でていた。
 曲は、昨今、熱心に練習をしている“ジュ・トゥ・ヴ”。
 香穂子の優しくて温かな音色を聴く度に、こころが切なく締め付けられるのを感じていた。
 痛い。
 なのにもっともっと聴きたいと思う不思議な音だ。
 まるで音楽の神様に導かれるかのように、吉羅は香穂子に近付いて行く。
 秋の終わりを囁く黄金色の切ない陽射が、まるでスポットライトのように香穂子を照らした。
 姉さん…!
 一瞬、そこに姉がいて、香穂子の指先に宿り音楽を奏でているように見えた。
 綺麗な音色。
 こころを安堵させるのと同時に、蕩かせるような音色。
 吉羅は声にならない声をこころのなかで上げながら、香穂子を見つめた。
 姉の面影と香穂子が重なり、より輝かしい表情を浮かべている。
 きら、きら輝いて見えた。
 こんなに誰かが輝いていると思えたのは、初めてなのかもしれない。
 吉羅は動くことが出来ずに、ただ香穂子を見つめ、音に耳を傾けることしか出来なかった。
 曲を弾き終わり、香穂子はようやく吉羅の存在に気付いてくれた。
「…吉羅さん…」
 名前を呼ばれたのに返事すらしてやれないまま、吉羅は香穂子に背中を向けた。
「…吉羅さん…! きっと文化祭のコンサート、成功させますから! 見届けて下さいっ!」
 香穂子は吉羅の背中に向かって強く懇願するように叫ぶ。
 吉羅は振り返って香穂子を見たが、そのまま黙って再び背中を見せて歩き出した。
 何を言えば良いのか、解らなかった。
 吉羅が自分の不甲斐なさに溜め息を吐きながら、応接室へと戻る途中で、賑やかに話す女子生徒を見掛けた。
「後夜祭のワルツ楽しみだよねっ! どんなコサージュをくれるのかなあ」
「柚木様はどなたと踊るのかしら?」
「きっとあのアンサンブルが一緒の普通科の子に、コサージュを用意してそうじゃない?」
「あのふたりが仲が良いっていうのが、釈然としないのよね」
「だけど月森君や火原さんとも仲が良いでしょう?」
「だったらその中の誰かなのかなあ。悔しいなあ」
 他愛ない会話なのかもしれない。
 吉羅にとっては聴き棄てて良いような無駄な話だ。
 なのにこころに遺ってしょうがない。
 リフレインをして聴き棄てることが出来ない自分に、吉羅は呆れ返るしかなかった。
 後夜祭のワルツ。吉羅自身は参加することはなかったが、姉が嬉しそうにドレスを用意していたのを思い出す。
 あんなに綺麗で輝いていた可愛い姉を、吉羅は知らない。
 はしゃぎ過ぎる姉のために、ワルツの練習台になったことを、ついこの間のように思い出す。
 香穂子も誰かのために練習をしているというのだろうか。
 それを考えると、不意に苛立ちがこころの奥深いところから湧き上がってくるのを感じていた。
 訳が解らない感情。
 今までは、こんな消耗するような想いを抱いたことなどなかったから。
 吉羅は意味すらも解らなかった。
「…私はおかしくなってしまったのかな…」
 吉羅は今日何度目か解らない溜め息を吐くと、髪をかきあげた。

 学院での仕事を終え、都内に戻ると、本業であるトレーディングに目を光らせる。
 傍から見れば、全く息抜きをする暇などないように見えるだろう。馬車馬のように働いていると感じているひとも少なくないだろう。
 だが実際にストレスを感じるのは本業だけで、学院の立て直しの仕事は、ストレスのかけらすら感じてはいない。
 それがどうしてかは本能では解っているのに、わざと解らないふりをしていた。
 自宅と事務所があるヒルズのショッピングスペースで、薄紅色をした可憐な髪用のコサージュを見つけた。
 歩いていた時に見つけたのだが、一目見て、香穂子が思い浮かんだ。
 輝くばかりの純粋さと情熱を秘めた紅い髪に似合うかもしれない。
 いつもは幼い高校生にしか見えないが、ドレスを身に纏い、コサージュを着ければ、瑞々しさを残した大人びた女性に見えるだろう。
 吉羅は胸の奥にほんのりと甘く切ない幸せな痛みを感じながら、コサージュを手に取っていた。
「…すまないが、これをプレゼント用に包装しては貰えないか?」
「はい、かしこまりました」
 店のスタッフが、丁寧に包装してくれている間、吉羅はほのぼのとした幸福に包まれていた。
 香穂子がこのコサージュを着けてワルツを踊ってくれたら、これほどに幸せなことはないだろう。
 包装されたコサージュを受け取ると、珍しく吉羅の唇に笑みが零れ落ちた。
 香穂子が綺麗な瞬間を見たい。
 一緒にワルツを楽しめたら…。
 この感情が何なのかは解らない。
 ただ幸せな気分にしてくれることだけは、解っていた。
 自宅で仕事をしながら、パソコンの横に置いたプレゼントを眺める。自分でもどうしてこんなことをしたのかが解らない。
 ワルツなんて生徒と踊ることなんて出来ないはずなのに。
 一緒に付けてくれたプレゼント用のメッセージカードを手に取ると、それをじっくりと眺めた。
 カードに吉羅らしい乱れの知らない均整が取れた文字で認める。

 TO KAHOKO FROM A

 そこまで書いたところで、吉羅は筆を置く。
 何の見返りも求めずに誰かに何かを渡そうとするなんて、久し振りかもしれない。
 今まで、渡そうとしたのは、姉と香穂子だけだ。
 それ以外の人間には、必ず何か思惑があった。
 純粋に誰かのためだけに行動するなんて、今まであり得なかったのに。
 吉羅は、プレゼントの箱を軽く弾く。
 この感情が何であるかは、今は考えたくなかった。
 考えてしまったら、認めてしまったら、もう引き返すことなど出来なくなるだろうから。


 文化祭も近付くと、やはりワルツの話題で持ち切りになる。
 何もしなくても、吉羅の耳には五月蠅いぐらいに入ってきた。
 女子はコサージュを誰から貰えるのか話し、男子は受け取って貰えるのか心配そうに話している。
 いつの時代も一喜一憂するところは同じなのだ。
 ふと吉羅の視界に香穂子の姿が飛び込んで来た。
 香穂子に見つからないように、素早く応接室へと入る。
「ね、香穂、コサージュを貰いたい相手はいるの?」
 友人の問いに香穂子がどう答えるのかを、思わず耳を峙てて聴いてしまう。
「…いるよ…」
 香穂子の小さな声がまるでガラスの破片のように突き刺さった。





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