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コサージュなんて、ワルツを踊るから意味があるのに、踊らなければ何の意味はないのだ。 衝動買いをしてしまったことを、切なく後悔してしまう。 十以上も違う自分を、今時の女子高生である香穂子が本気で相手にするはずなんてないのに。 それに一緒にワルツを踊る資格はないのだ。 吉羅は改めて現実を知り、もやもやと苦しい気分を味わった。 ワルツを踊る資格がない自分に、コサージュを渡す資格もないのに。 応接テーブルに置いてあるプレゼントを見つめ、苦々しい気分になった。 「…こんなものは…、最初から必要なかったのかもしれないな…」 吉羅はそっとスーツに隠すと、校庭に出ることにした。 ここのゴミ箱に棄てておけば、誰も気が付かないだろう。 吉羅が校庭に出ると、香穂子が楽しそうに仲間たちとアンサンブルを合わせていた。 ソロの時とはまた違ったメロディを奏でて、本当に楽しそうだ。 アンサンブルも息があい、見事だ。 もうすぐ文化祭であるがゆえに、完成度を高めているようだった。 アンサンブルのなかで香穂子の音を聴くのも、また良かった。 温かさと透明さで、彼女よりも遥かに技術的には上の仲間たちを引っ張ってみせている。 香穂子の音は、他の者の音を牽引する能力すらある。 「…コンミスにも向いているのかもしれないな…」 吉羅は、アンサンブルの音を楽しんでいるオーディエンスから少し離れたところで耳を傾けていた。 アンサンブルは、“ジュ・トゥ・ヴ”を奏で始めた。 香穂子ひとりの演奏を聴くと、優しい情熱を感じられるのに、アンサンブルで聴くと、より音に厚みが加わりダイナミックな情熱が迸るようにに聞こえる。 香穂子ひとりの音のほうが、より官能的にもか聞こえていた。 アンサンブル演奏が終わり、吉羅は解らないように静かに香穂子たちから離れた。 アンサンブルの連中と自分とは、住む世界が違うことを今更ながらに思い知らされた。 彼らは夢のような清らかな楽園の住人に見えるが、自分はといえばドロドロとした決して綺麗ごとでは生きて行くことが出来ない世界に住んでいる。 こんなにも住む世界が違うなんて、思いもよらなかった。 あの世界では綺麗に咲き誇るコサージュも、きっと自分の世界では枯れ果ててしまうかもしれない。 吉羅は苦々しい想いを抱きながら、香穂子にプレゼントするはずだったコサージュを、ゴミ箱に棄てた。 抱いている苦しい想いと一緒に捨て去ったはずなのに、それだけは棄てることが出来ないでいた。 香穂子は練習を終え、暗くなった校庭をトボトボ歩いていた。 脳裏には吉羅の厳しい表情が浮かぶ。 今日も遠くから、香穂子たちの演奏を聴いているのが見えた。 まだまだだと冷たく笑われているような気がして、途中で泣きたくてしょうがなくなった。 いつか、吉羅に音楽で微笑んで貰える時期が来るのだろうか。 香穂子は心苦しさを感じながら、唇を噛み締めた。 「ちょっと、あなたかほこさん?」 中年の女性に声を掛けられて振り返ると、そこには校内の管理をしてくれている女性が立っていた。 「…はい、香穂子ですが…」 「やっぱり! かほこって子はいるかって、にゃんこ先生に訊いたら、あなたしかいないって聴いてね」 女性な小さな袋から箱を取り出すと、それを香穂子に差し出す。 「これは…?」 高級店で買われたのだろうゴールドリボンが印象的な箱を差し出される。 「カードみたいなのが挟んであってね、綺麗な字で、かほこさんへって書かれていたから、あなたへのプレゼントなのかと思ってね。高級店の包み紙だし、これをゴミとして出してもどうかと思ってね。だったら贈られるはずだったひとに渡そうと思って」 「…有り難うございます」 香穂子はプレゼントボックスを受け取ると、メッセージカードを見た。 贈り主はただイニシャルでAと書かれているだけだ。 いったい誰なのだろうか。 ひとりのひとの名前が思い浮かびながらも、ドキドキし過ぎて、思考回路が上手く働いてはくれない。 「…じゃあ、渡したよ!」 女性はそう言うと行ってしまった。 吉羅のフルネームを香穂子は知らない。 もしイニシャルがAだったとしたら。 香穂子が周りを見て吉羅を探していると、天羽がご機嫌な表情をしながらやってきた。 「菜美!」 「どうしたのよ、香穂!」 焦るような香穂子を見て天羽は驚いたらしく、たじろいでいるのが解る。 「あのさ、吉羅理事の下の名前って何か解る?」 「たしかねえ…、あ、そうそう、“暁彦”のはず。吉羅暁彦だよっ!」 暁彦。イニシャルはAだ。 こころにドキドキする以上のときめきが溢れ出してる。 「有り難う、菜美!」 香穂子は天羽に物凄い勢いをつけて礼を言うと、そのままダッシュする。 まだ応接室にいるかもしれない。 逢いたい。逢ってプレゼントの理由を訊いてみたい。 どうして棄てたのか。それもあわせて訊いてみたかった。 香穂子は息苦しくなるのも構わずに、ひたすら走った。 心臓のリズムは、ときめきで弾んでいるのか、それとも全速力で走っているからかは解らない。 ただただ走る。 ようやく応接室にたどり着いた時には、酸素不足でおかしくなりそうだった。 香穂子は何度も深呼吸をして話せるレベルに呼吸を整えた後で、ようやくドアをノックした。 「日野です。失礼してよろしいでしょうか?」 ノックをしても声を掛けても、返事はかえってはこない。 「…もう帰ってしまったのかな…」 そっとドアノブを回し中の様子を伺うと、応接室にはもう誰もいなかった。 「やっぱり帰ってしまったんだ…」 今まで走ってきたから、急に疲れが出てしまい、香穂子はその場で崩れ落ちた。 応接室にはまだ吉羅の気配が遺っており、ほんのりとコロンの香りがした。 がっくりと肩を落としながら、香穂子はトボトボと校門へと向かった歩いていた。 不意に横を漆黒のフェラーリが通り過ぎ、吉羅が運動している姿を見つけた。 入れ違いになっていたのだ。 香穂子は吉羅の愛車が都内に向けて走り去るのを見送りながら、タイミングの悪さを呪った。 鞄のなかに大切に入れたプレゼントボックスを見つめる。 ここには何が入っているのだろうか。 香穂子は震える指先でそっとパッケージが開けた。 そこには、薄紅色の可憐なコサージュが入っている。 こころがキュンと切なく鳴り響く。 香穂子は涙でコサージュが歪んで見えてしまう。 こんなにも嬉しくて切ないプレゼントは他にないのではないかと思う。 最も欲しかった人からのコサージュ。 吉羅は香穂子に本当に贈ってくれるつもりだったのかだろうか。 それとも、他に“かほこ”という名前のひとを知っているのだろうか。 着けたい。 だが、着けるのを憚られる。 香穂子は苦しさを抱きながら逡巡していた。 「おい日野、下校時間だ! 早く帰れよ!」 金澤の声に香穂子はビクリとして振り返る。 「閉門の時間だ、日野」 「あ、はいっ!」 香穂子が慌ててコサージュの入ったボックスを鞄のなかに入れるのを、金澤がじっと見つめてくる。 「…日野、少なくとも俺が知っている範囲内では、吉羅の知り合いの“かほこ”はお前しかいない」 「…え?」 香穂子が驚いて聞き返そうとすると、金澤は踵を返す。 「それだけだ。気をつけて帰れよ」 金澤は手を上げると、そのまま校舎に向かって歩いていく。 香穂子のこころは幸せの甘みに満たされていた。 |