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コサージュを付けて演奏をすれば、吉羅は気付いてくれるだろうか。 大切な大切なコサージュ。 どのような想いでプレゼントをしてくれたのだろうか。 どのような想いで棄ててしまったのだろうか。 その答えを考える度に、切なくてしょうがない。 今度の演奏はとっておきの大切なものになるから、コサージュを付けて、音に気持ちを乗せたかった。 ドレスを身に纏い、コサージュをつける。 こころも姿も華やいだ気がした。 大切な“ジュ・トゥ・ヴ”を奏でれば、この切ない想いに気付いてくれるだろうか。 気付いて欲しい。 だけどまだ気付いて欲しくないような気もする。 だがこのコサージュを身に着ければ、“ジュ・トゥ・ヴ”を上手く演奏出来るような気がした。 「香穂、良いかな?」 ノックと同時に天羽がひょいとドアの隙間から顔を出してきた。 「菜美! どうぞ!」 香穂子が立ち上がると、菜美は歓声を上げる。 「凄く可愛いじゃないっ! これだったら、みんな魅了されちゃうよ」 「音で魅了されたら良いんだけれどね」 香穂子ははにかんだ笑みを浮かべる。 「だけど、今日の香穂は本当に綺麗。あっ、そのコサージュさ、誰から貰ったの!? 凄く似合ってるよ! ねぇ、誰から貰ったの!?」 天羽はいつものくせなのか、まるでパパラッチのように訊いてくる。香穂子はたじたじになりながら、笑って誤魔化した。 「…誰って…。ひ、拾ったっていうか…拾って貰ったっていうか…」 香穂子がしどろもどろに話していると、天羽の瞳がキラリと光った。 「香穂、誰なの?」 「だ、だけどさ、本当のことなんだよ。掃除のおばさんに拾って貰ったんだよ。で、私宛のプレゼントってことで、渡してくれたものなんだ…」 香穂子は誰か見当はついているが、核心の部分は、いくら天羽でも言えなかった。 「マジで?」 「マジで」 「相手は見当ついてるの?」 「ついてないよ」 天羽の一問一答はドキドキしてしょうがない。 「だったらどうして着けるの?」 「着けて出れば、誰かって解るじゃない」 香穂子は誤魔化すように言うと、菜美にわざと笑いかけた。 「確かにね。だけどさ、変なヤツじゃないって確信はないわけじゃない?」 「そ、それはないと思うけれど…。こ、こんなに綺麗なコサージュをくれたし…」 「まあ、確かにね、このコサージュは豪華だし、相当の財力があって、あなたをとても理解しているひとだとは思うけれどね」 「そう思うよね」 香穂子は納得するようにしっかりと頷いて見せた。 「だけど、誰か分かったら教えてね」 「う、うん」 香穂子は天羽に対して罪悪感を覚えながら、曖昧に返事をすることしか出来なかった。 「香穂、じゃあ客席に行くね。それと今日のあなたはとても綺麗だよ」 天羽はニッコリと笑うと、そっと控室から出ていった。 香穂子は躰から力を抜くと、そっと溜め息を吐く。 天羽に気付かれてしまえば、きっと反対されるに違いないから。 いつか笑って言える日がくれば良いと、香穂子は思わずにはいられなかった。 吉羅は講堂の端の席に腰を掛けると、ただ一点を見つめていた。 ここにいるなんて、今までの自分ならば信じられないことだった。 音楽なんて二度と関わりを持つつもりはなかったのに。 今やこうして音楽を聴くためにここにいる。 日野香穂子のせいだ。 もしここに彼女がいなければ、こうしていることもなかっただろうに。 このコンサートの日がこころから楽しみになっていたのは、香穂子の温かな音を聴くことが出来るからだ。 フッと柔らかな笑みを浮かべると、真っ直ぐとステージを見つめた。 辺りが暗くなり、いよいよステージの幕が上がる。 きっとステージの中央にいるだろう香穂子を、吉羅は無意識に探す。 香穂子が現れた瞬間、吉羅は息を呑んだ。 香穂子の髪には、吉羅が贈ろうとして贈れなかったあのコサージュが着けられている。 まさか。 だが特製品ではないから、店に行けば簡単に買えるものだ。 これは偶然だ。 そう想うように自分に言い聞かせているというのに、鼓動は甘く苦しく響いている。 何処か期待している自分がいる。 あのコサージュが、自分が買ったもので、それを香穂子が知って、わざと着けていると、思いたかった。 コサージュを着けている香穂子はとても綺麗で、想像以上に似合っていた。 綺麗で可愛い。 いつも以上にこころを奪われて行くのが解る。 香穂子を抱き締めて、このまま連れさってしまいたいほどに、欲しいと思った。 ひとをこんなに愛しいと思ったことは今までなかったかもしれない。 香穂子の音に酔いしれ、その姿に酔い痴れる。 吉羅は、ただ香穂子だけを見つめ、他の誰もこの空間にはいないような錯覚を覚えた。 幕が開き、香穂子は直ぐに吉羅の姿を探した。 恋するがゆえか、物凄いスピードで動体視力が動き、直ぐに吉羅を見つけることが出来た。 一瞬、目があったような気がする。 香穂子の姿を見て、驚いている様子だった。 きっとこのコサージュのせいだろう。 吉羅が棄てたコサージュを、香穂子が拾って使っているのだから当然だ。 驚くのは無理もない。 良い意味で驚いてくれていますように。 香穂子は祈るような気持ちになった。 吉羅の姿を見ると、どこからか緊張を和らげるものが滲んできて、落ち着くことができる。 香穂子は深呼吸をすると、ゆっくりとヴァイオリンを構えた。 どうかこの音が、吉羅のこころに真っ直ぐと届きますように。 恋の祈りを込めて、香穂子はヴァイオリンを奏で始めた。 ふたりのこころが優しく交差する。 優しく恋の炎は、やがて辺りを焼尽くす情熱の炎になっていく。 吉羅は常に香穂子に目を離すことなく、ただ真っ直ぐと見つめ、音を聴いていた。 純粋で汚れることを知らない音と姿。 自分が触れてしまえば、泡沫のように消えてしまうような気がした。 汚れなんて、香穂子には必要ないこと。いや、香穂子には最も似合わないものなのかもしれない。 だからこそ自分が触れるのが禁忌のように思える。 触れてしまえば、きっと香穂子は砂糖のように溶けて崩れてしまうだろうから。 吉羅はこれ以上音を聴いていられなくなる。 これから先、香穂子の音を聴いてしまえば、決定的に愛してしまい、後戻りは不可能なぐらいの苦しい恋をしてしまうことが解っていたから。 だからこそ香穂子にこれ以上関わらないほうが良いと、思わずにはいられなかった。 曲が終わったところで、吉羅は席から立ち上がろうとする。 「逃げるな」 聞き慣れた声とともに腕を掴まれる。 「金澤さん…」 視線を下げると、いつの間にか隣りには金澤がいた。 「最後まで聴いてやれ。日野が哀しむ」 「…ですが…」 これ以上聴いてしまえば、日野香穂子を深く愛してしまうのは分かりきっているから。 「…あのコサージュは、お前さんが棄てたものだろ?」 金澤の鋭い指摘に、吉羅は黙り込む。それだけで解ってしまう。 「あれを拾ったのは清掃のひとだ。日野は、あれがお前さんが日野に贈るつもりだったと知って着けている。ま、無言の主張ってヤツだな」 金澤はまるでひとりごちるように言うと、柔らかく笑った。 「金澤さん」 「おっと、次の曲が始まる。聞こう」 香穂子が再びヴァイオリンを奏で始める。 その曲は“ジュ・トゥ・ヴ”だった。 |