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客席の喧騒に包まれながら、吉羅は招待席に腰を下ろした。 見つめる先はステージのみ。あと少しでここに現われる、たったひとりの愛しい少女のことだけを想っていた。 もう誤魔化すつもりはない。自分自身のこころに偽るつもりもない。 香穂子を、日野香穂子を愛しているということを。 出会ってからこんなにも短い時間で誰かを愛することになろうとは、思ってもみなかった。 姉を亡くしてから、ひとを愛するだとか、音楽を愛するといったこころをなくしてしまった。 それを蘇らせてくれたのは香穂子だ。 今は構えた気持ちなどは一切なく、良い演奏が出来るようにとただ祈るだけだ。 そして、どのような深みある音を聴かせてくれるかどうか、楽しみでもある。 学院生徒たちのチクチクとした視線に笑みすらも零しながら、吉羅は悠然と腰を下ろしていた。 願わくば。 愛しい少女が素晴らしい演奏が出来ますように。 今の願いはそれしかなかった。 静かに鼓動が高まる。 こんなにも楽しみでドキドキしたことなど久し振りなのかもしれない。 吉羅は切ないのに幸せな温かい気持ちを握り締めて、クリスマスの演奏に耳を傾ける準備をした。 香穂子は何のしがらみもない気分で、ステージに立っていた。 こんなにも清々しい気持ちでステージに立てるのは初めてかもしれない。 「開演致します」 報道部アナウンサーの声がホールに響き渡り、香穂子は背筋を伸ばす。 大丈夫。今日は素晴らしい演奏が出来る。 仲間と一緒だから。 仲間に見守られているから。 幕が緩やかに華やかに開く。 視界に観客席にいる吉羅の姿を認める。 大好きなひとが見てくれているから。 だがら頑張れる。 香穂子はヴァイオリンを構えると、真っ直ぐなこころで演奏を始めた。 みんなに届け。そして。あのひとに届きますように。 香穂子はヴァイオリンを弾くことを楽しみながら、時にはダイナミックに、時には温かく、弦を弾く。 音楽を愛する想い、ひとを愛する想いが、ホールのなかに広がっていた。 背中がざわつくほど、胸が締め付けられるほどに、誰かの演奏に惹かれたことは今までなかった。 素晴らしい可能性を秘めた音が、吉羅のこころに響いて来る。 素晴らしいなんて言葉が陳腐に思えてしまうほどに、こころに響く演奏だった。 そのなかでも香穂子のヴァイオリンの音色だけは、直ぐに聞分けることが出来る。 自分の魂を再生させてくれたと言っても過言ではない音。 いつしか吉羅の唇に満たされた笑みが湛えられた。 完敗。 いや最初から勝敗など解っていたのだ。 吉羅は魂を浄化してくれるような音に目を閉じる。 ひとの想いというものに教えられたと思った。 聴力に集中しながら、吉羅は目を閉じる。 音楽の向こうに幸せな光景を見た。 プログラムに書かれた演奏が一通り終わると、吉羅は席を立ち上がった。 本当は香穂子に“良い演奏だった”と言いたかった。 だがその資格は自分にはない。それは一番解っているつもりだ。 誰もいないロビーで、遠くから聞こえる歓声を耳にしながら、吉羅は予め用意していた“敗北宣言”の手紙を、係員に渡した。 「これを金澤紘人さんに渡して頂いて構わないですか?」 「はい。金澤様ですね」 係員は丁重に受け取ってくれると、吉羅に一礼してくれた。 吉羅はひとりホールを出る。 最初から負けることぐらい解っていた。 日野香穂子に恋をしてしまった時から、完敗だったのだ。 きっと勝利の余韻に酔い痴れているだろうホールの外で、吉羅はひとり佇む。 漆黒の澄んだ空には、無数の綺羅星が輝いている。 それを見上げながら、吉羅はひとりごちた。 「…姉さん…きっとこれで良かったんですよね…」 吉羅が呟くと、まるで返事をするかのようにま白い雪がふわふわと闇夜を照らした。 吉羅はスーツになおしていた香穂子へのクリスマスプレゼントを見つめる。 このプレゼントを贈る日は、もうないかもしれないと、切なく感じていた。 吉羅からの敗北宣言とも取れる手紙を受け取り、誰もが勝利に酔い痴れている。 こころをひとつにして盛大なるアンコール曲を演奏していた。 香穂子は嬉しいのに心が痛い気分で演奏をする。 客席にはもうあのひとはいない。 プログラムの演奏を聴いて、静かに退場したのだ。 吉羅らしいと思うのと同時に、本当に泣きそうになった。 学院を守れたのに、吉羅に勝つことが出来たのに、こころは全く晴れ上がらない。 それどころか、切なくて痛くて涙が零れ落ちそうになった。 きっと吉羅は最初から勝つことなど考えていなかったのだ。 整った文字と、上質な封筒や蝋印を見れば、事前に用意をしていたことは明白だったからだ。 逢いたかった。逢いたくて堪らなかった。 香穂子は興奮覚め遣らぬホールを後にして、急いで吉羅を探した。 だがどこにも吉羅はいない。 ヒールで靴ずれを起こしても、足が痛くても、一生懸命吉羅を探したが、見つからなかった。 ヒールで足首をひねってしまい、とうとうその痛みに香穂子は声を殺して泣き出した。 吉羅を想い。 脚の痛みに。 「…日野君…」 驚いたような深みのある声に、香穂子が振り返ると、そこには吉羅が立っていた。 「…吉羅さん…」 その姿を見ると泣けて来て、香穂子は子供のようにわんわんと泣いた。 その姿を吉羅が困ったように見ると、そっと近付いて来た。 「…痛みがあるのか…?」 「少しだけです」 「手を貸そう…。あのベンチまで」 吉羅に支えられて、香穂子はよたよたと歩く。ほんのりと男らしい甘い香りが鼻孔をくすぐり、香穂子はくらくらしてしまいそうになるぐらいに、ときめいてしまっていた。 ベンチに座らせて貰い、吉羅が足首を見てくれる。触れられた瞬間、痛みとは違った電流が全身を駆け巡った。 「…大丈夫か…?」 「大丈夫です…」 香穂子は浅く呼吸をすると、甘美な痛みに唇を噛み締める。 「…どうしてこんな怪我をした…?」 「…吉羅さんを探していたから…」 香穂子の言葉に吉羅の手が一瞬止まる。信じられないかのように、驚いたかのように香穂子を見上げた。 まるで少年のような瞳だった。 香穂子は吉羅の瞳を、まるで抱き締めるように温かなまなざしで包みこむと、真っ直ぐ見つめた。 「…吉羅さんのことが気になっていたから…。吉羅さんにおめでとうを言って貰いたいから…。吉羅さんに好きですって…」 途中で言葉が詰まってしまい、香穂子は感きわまり涙を零してしまう。 ずっと好きだったから…。 香穂子が肩を震わせて俯いていると、突如、強く抱きすくめられた。 「……っ!」 吉羅の大人の男らしい香りがふわりと香るのと同時に、頼りがいのある抱擁で香穂子を支配する。 胸が幸せで痛い。 心臓が走ってどこかに行ってしまいそうなぐらいに、喉がからからで堪らないぐらいに、幸せな緊張が躰を駆け抜けた。 「…香穂子…」 吉羅の甘くて深い大人の声で名前を囁かれて、香穂子の瞳から涙が零れ落ちる。 「…私も君を愛しているよ…」 ただ一言を呟くと、吉羅は香穂子の頬を両手で包み込んで、くちづけをしてくれた。 触れるだけなのにヴェルヴェットのような深みのあるキスに、このまま消えてなくなってしまっても構わないと思う程の幸せを感じる。 お互いの想いをようやく理解することが出来た。想いが通じた後のキスはなんて幸せなのだろうかと思う。 唇を離した後、吉羅はコートのポケットからアクセサリーケースを取り出した。 「メリークリスマス、香穂子」 吉羅は甘く優しい光を帯びた笑みを浮かべると、香穂子の首にペンダントをかけてくれる。 綺麗なプラチナと花のペンダント。そこには“For Eternal Love”の文字が煌めいている。 事前に用意してくれていたのが、何よりも嬉しかった。 「…有り難うございます…。吉羅さんにプレゼントを貰うのはこれで二つ目ですね」 「…コサージュか…」 「はい。あのコサージュは吉羅さんですよね?」 香穂子が優しい想いを抱きながら訊くと、吉羅は頷いた。 「ああ。君にプレゼントしようと思っていた…。君に似合うと思ったからね」 「あれも大切にしています。有り難うございます」 香穂子は吉羅の躰をそっと抱き寄せる。 ようやくお互いに素直になることが出来た。これ以上に幸せなことはないのではないかと、香穂子は思った。 「…だけど、私、クリスマスプレゼント用意してなくって。あ、あの、明日でも用意をしてきますね」 「その必要はない。その代わりに私の我が儘な願いを聴いてくれないか?」 吉羅は香穂子を見つめながら、愛しさを瞳に投げ掛けてくれる。 「…はい」 「“ジュ・トゥ・ヴ”を弾いてくれないか? 私のために…」 「はい、喜んで!」 香穂子はベンチから立ち上がると、背筋を伸ばし、“ジュ・トゥ・ヴ”を奏で始めた。 ふたりにとってテーマ曲になるだろう軽やかで情熱的な愛の曲を、奏でる。 香穂子が演奏を終えた後、ふたりは見つめ合うと、ただ抱き合いくちづけを交わした。 ふたりを祝福するように教会の鐘が響き渡る。 新しい時間が始まりを告げた瞬間だった。 |