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クリスマスコンサートの朝はとても静かだった。 いつもよりも早く目が覚めたが、少しも眠くなんかなかった。 躰の内側まで清らかに澄んでいるような気がする。 今日のコンサートは最高のものになるに違いないと、自然に思えた。 香穂子は仕度を済ませ、コンサートホールに行く前に、近くの教会に行くことにした。 吉羅と初めて出会った教会。そして吉羅の姉が眠る場所。 今日という日だからこそ、そこに行かなければならないと思った。 香穂子は朝食前に教会へと向かう。 今朝は一段と空気が澄んでいて、寒く感じる。空を見上げれば、鈍色の分厚い雲がびっしりと敷き詰められている。 香穂子は躰の底から冷えるのを感じながら、白い吐息を吐いて、教会へと向かった。 張り詰めているのに、何故か心地好い雰囲気だった。 香穂子は教会のなかに先ずは足を踏み入れると、祈りを捧げる。 どうかきょうのコンサートが上手くいきますように。 そして。 願わくば吉羅のこころがほぐれて、音楽の楽しさを思い出してくれますように。 香穂子は強く祈った。 墓地エリアへと向かうと、先客のシルエットを視界に捕らえた。 そのひとは初めて出会った時に吉羅が抱えていたのと同じ花束を抱えている。 風に揺れるカサブランカと共に、先客が振り返った。 先客は吉羅だった。 いつもよりも透明な存在感がある。 「…最後の神頼みか…? 日野君」 相変わらずの冷たい言葉と声ではあるが、その不器用な冷たさも今は愛しい。 「ええ、神頼みです。みんながニッコリと笑える結末のために大団円を迎えるためにも」 香穂子は静かに笑うと、吉羅に近付いた。 吉羅は墓の前におり、そこには吉羅の姉の名が刻まれている。 「お参りをして、構いませんか?」 「ああ。ヴァイオリニストである君が参ってくれれば、姉も喜ぶだろう」 「有り難うございます」 香穂子は墓前に跪くと、祈りを捧げる。 安らかにお眠り下さい。 そして私たちを見守って下さい。…と。 吉羅と出会ってからのおよそ三か月間は様々なことが目まぐるしく起る時間だった。 肉体的にも、精神的にも崩れそうになってしまったこともあったが、乗り越えてくることが出来た。 実りがあり、また、考えさせられる時間でもあった。 本当に僅か三か月のことなのに、決して長い時間ではなかったのに、想い出が次から次へと懐かしく思い出された。 今日という日を迎えることが出来ただけでも満足している。 勝ち負けだとかそんなことは関係ないとすら思えてくる。 澄んだ気持ちでヴァイオリンを奏でることが出来るだろう。 こんなにも落ち着いていられるのは初めてかもしれないと、香穂子はしみじみと思っていた。 長いようでとても短い祈りを終えて、香穂子は立ち上がろうとする。 不意に、吉羅が優しいまなざしで眩しそうに見つめているのに気付いた。 香穂子は心臓がキュンと甘い音を立てて縮まるのを、確かに感じていた。 甘苦しい心臓は、吉羅に向かって走りだそうとしている。 本当に温かくて魅力的な瞳だった。 香穂子は魅了されながら、頭のなかがくらくらするような気がした。 「…姉は音楽を純粋に愛した…。君のようにね…。…真っ直ぐなところは…君と姉は似ているかもしれない…」 吉羅は自嘲気味に微笑んだ後、直ぐに冷たい視線に戻った。 香穂子もそれをタイミングに立ち上がると、吉羅に頭を深々と下げた。 「有り難うございました」 「…礼を言うのはこちらのほうだ」 吉羅はスッと目を細めると、何処かやるせない笑みを唇に浮かべた。 「今日のコンサート、楽しみにしている。君達の“本気”をどこまで見せて貰えるか、大いに楽しみなところだからね」 「楽しみにしていて下さい。私たちの学院を想う力や音楽への愛情をしっかりと聴いて下さい」 「ああ、解った」 吉羅はフッと静かに笑う。 時折見せてくれる温かな笑みは、香穂子のこころは温めてくれる。 温もりがじんわりと下りて来て、香穂子は沢山のものをチャージすることが出来た。 「それでは失礼します」 「ああ」 香穂子は吉羅に背を向けると、真っ直ぐ力強く歩き出した。 大丈夫。 きっと素晴らしい演奏が出来る。 強く確信せずにはいられなかった。 香穂子の背中を見送った後、吉羅は姉の墓と向かい合う。 「…姉さん…、彼女はきっとクリスマスコンサートを成功させるでしょう…。自分達の力でコンサートを成功させて、その手で何かを掴み取って貰いたいと思っています。もし彼らが私を唸らすことが出来たのであれば、その時は、彼らの希望に添えるように努力をしようと思っています」 吉羅はこの上なく優しい声で呟くと、穏やかに笑った。 今までは音楽を否定的にしか捉えられなかった。だが今は、その素晴らしさを再認識し始めている。 それもあの生徒のお陰だ。 日野香穂子がいなければここまで思うことはなかった。 「また来ます。姉さん…」 吉羅は姉の墓石に背を向けると、駐車場に向かって歩いていく。 それは拘り続けた過去をようやく和解出来た瞬間でもあった。 コンサートホールに入っても、いよいよ決戦という気負いは香穂子には一切なかった。 ここまでやってきたのだから、大きなホールで演奏出来るのを楽しめば良い。 こんな素敵なホールで演奏出来ることは滅多とないことなのだから。 「き、緊張しますね…先輩…」 冬海の緊張も、余裕を持って包んでやれる。震える冬海をしっかりと抱締めた後、香穂子は肩に手を置いた。 ここまで手を携えて頑張ってきたかけがえのない仲間だから。 「大丈夫だよ!きっと上手くいくから!」 「はい、香穂先輩」 香穂子が元気いっぱいに励ますと、冬海もつられるようにニッコリと微笑んだ。 身仕度を終えると、ノックが鳴り響く。 「香穂、冬海ちゃん、入って良い?」 「どうぞ」 ドアが静かに開くと、天羽と金澤が入って来た。 「香穂、冬海ちゃん! 今日は頑張ってね! さっきさ、吉羅のヤローのカッコ付けフェラーリ見たよ! ったく、馬鹿じゃんあんなの!あんなキザヤローやっつけちゃおうねっ!香穂!冬海さんっ!」 天羽は憤慨しながら、口を尖らせ、シュプレヒコールを上げている。 その様子を金澤は苦笑いをして見つめていた。 「ねぇ、金やんの後輩だか何だか知らないけれどさ、あんなヤツ、星奏学院の理事長の資格なーしっ! OBの資格なーしっ!」 「…ったく、天羽…お前な…」 金澤は呆れ果てるかのように溜め息を吐くと、香穂子に近付いてきた。 「日野、冬海、今日はしっかりやれ。ただ自分達が信じる音楽をやれば良い。しっかりな」 金澤は、励ますように香穂子と冬海の肩をしっかりと叩くと、強く頷いてくれる。心強かった。 「はい、頑張ります」 香穂子と冬海が頷くと、金澤はもう一度頷いてくれた。 「…日野、お前さんなら…いや…」 金澤は一瞬逡巡するように目を伏せる。 「…お前さんたちなら…、きっと吉羅のこころを動かすことが出来るだろう…」 金澤は確信しているような笑みを浮かべて、香穂子たちを見つめてくれた。 ノックが楽屋に響き渡る。 「そろそろ時間ですよ」 コンサートスタッフに声を掛けられて、香穂子と冬海は返事をした。 「じゃあ、俺たちは客席に向かう」 金澤は楽屋を出掛けて、何か忘れ物をしたかのように振り返る。 「…日野、お前さんのお陰で吉羅のヤツ、学院の生徒だった頃に戻って来たよ…」 金澤はそれだけを言うと楽屋を出て行く。 香穂子は金澤の言葉を受け取ると、それを強く噛み締めた。 決戦まであと少し…。 |