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香穂子はカセットテープを前に、緊張の余りに生唾を飲み込む。 ここに入っているのは、かつて吉羅が演奏した音だ。 音楽も愛も幻想だ。そんなものは人生に必要はないと言いながらも、かつてはこころから音楽を愛したひと。 今は酷く拒絶している世界を、かつてどのように受け入れていたのか。 香穂子は聴く前から緊張していた。 楽しみであり、どこか恐ろしい。 吉羅が奏でた世界を知ることで、もっともっと好きになってしまうことは、充分過ぎるぐらいに解っていたから。 香穂子は夕食もそこそこに、吉羅の音と今向かい合う。 同じようにファータに見出だされて音楽を愛したひと。 香穂子は深呼吸をすると、ゆっくりとカセットデッキのスイッチを押した。 流れて来たのは、吉羅が切ない顔をする曲、“ジュ・トゥ・ヴ”だった。 甘美な旋律を透明感のある音色で演奏している。音のイメージは、癒される優しいブルーのような音だった。 愛が溢れ、本当に温かな癒される音だ。 今の吉羅しか知らない者がこの旋律を聴けば、きっと信じられないと思うだろう。 だが香穂子は、これが吉羅の本当のこころだと思った。 まるで地中海の島を彩る麗しくも明るい空のブルーのようなこころ。 冷たくしなければならないと自分で言い聞かせているのに、それを徹底出来ないひと。 音楽など生きていくスキルとしては必要ないと言いながらも、本当は最も必要だと感じているひと。 それが吉羅暁彦なのだ。 香穂子は溢れだしてくる熱くて切ない恋心を抑えることが出来ずに、いつの間にか嗚咽を漏らしていた。 こんなにも暖かいのに繊細で孤独を同居させている音はない。 香穂子は、初めて吉羅暁彦のこころに触れたような気がした。 涙が溢れてしまいどうしようも出来ない。 短いシャンソンに、香穂子は号泣していた。 洟を啜りながら、とてもじゃないが人様に見せることが出来ないほどに顔をクシャクシャにさせてしまう。 これだと、どこにも行けないと思ってしまうほどだ。 「…ダメだ…。こんなに泣いたら、明日、本番なのに顔が腫上がっちゃうよ…」 香穂子は涙を拭いて、泣きやもうとしたが、出来なかった。 吉羅の音を聴けば聴くほど涙が溢れてきた。 「…ダメだなあ…、私は…」 苦笑いしながらも、唇が涙でしょっぱくて堪らなくなるほどに涙が零れ落ちていた。 吉羅が演奏した後、再び同じヴァイオリンで同じ曲が流れてきた。 香穂子は息を呑む余りに、涙が止まる。 今度の音は、安らぎのある深い夜を感じた。同じ曲なのに、吉羅はどちらかと言えば明るい太陽を彷彿させたのに対して、この音は誰かを守り安らぎを与えるような深みがある。 温かいのに、深みがあって、聴いているだけで安心出来る音。総てを預けてしまえるような大きさがあった。 ヴァイオリンもダイナミックな技巧でありながら、繊細な表現も素晴らしい。 そして何よりも音楽への愛が満ち溢れているのが解る。こんなにも愛が溢れる音を香穂子は知らなかった。 こころが震えた。 吉羅の姉の音は、唯一無二の誰にも出せない深みがある。もし今も生きていれば、世界を代表するヴァイオリニストになっていたに違いない。 吉羅姉弟の“ジュ・トゥ・ヴ“が終わった後、ふたつの音が重なったワルツが奏で始めた。 ファシネイションと言われる、“魅惑のワルツ”だ。 吉羅姉弟のヴァイオリンデュオは、お互いにない部分を補いあった、完璧なひとつのメロディだった。 吉羅にとっては、姉の音が最高の旋律だったのだろう。 お互いに唯一無二だと感じていた音。 それを失ってしまうというのは、どれ程の絶望だったのだろうか。 最高のパートナーを失ってしまった以上、もうヴァイオリンを奏でたくなくなるのは、ごく当たり前の感情であったのかもしれない。 もし香穂子が同じ立場ならば、ヴァイオリンを置いてしまっていただろう。 ほんの幼い頃に、本物の音のパートナーを得ていた吉羅。それを失ってしまい、きっと苦しくて堪らなくて、離れたくなったのだろう。 愛、苦しみ、喜び、悲しみ、哀しみ、憎しみ。 それらを総て吉羅に与えたのは音楽だ。 悪いことも良いことも総て。 だからこそ香穂子は吉羅に音楽を愛するこころを取り戻して欲しかった。 涙が止めどなく溢れ、香穂子は暫く動くことすらままならなかった。 こんなこころを揺さぶる音楽を奏でていたひとがいる。 こんなにも純粋に音楽を楽しみ愛したひとがいる。 吉羅の音を取り戻したい。 それはとても不遜なことなのかもしれないが、音を奏でる手助けをしたかった。 吉羅の奏でた音を何度も聴きながら、香穂子は胸がキュンと音を立てて痛むのを感じた。 幸せな痛み。なのに少し切ない。 「…吉羅さん、だいすき…」 ひとりごちながら、香穂子は自分のこころを抱き締めるように膝を抱えた。 吉羅の音を聴いて、もっともっと吉羅のことを好きになった。 この想いはもう止めることなんて出来やしないから。 JRの高架下にある金澤贔屓の居酒屋に、吉羅は半ば引きづられるように連れていかれた。 「まあ、お前さんのスーツには似合わん場所だが、ホッケが美味い店だからな。まあ食べろや」 「…ホッケ…」 目の前にあるホッケを見つめながら、吉羅は軽く溜め息を吐いた。 金澤らしい気遣だと感謝しながら、吉羅は久し振りのビールを口にした。 「明日はいよいよクリスマスコンサートだな…」 しみじみと金澤は言うと、静かな笑みを浮かべながら吉羅を見た。 「上手くいかなければ、当初の計画通りに進めるだけです」 吉羅はわざと渇いた声で呟くと、クールに金澤を見た。 その瞳の奥には、香穂子への想いを隠している。 冷たい経営者としての顔を見せながらも、本当は成功を祈っているなどとは言えない。だが、金澤ならそれを完全に見透かしているかもしれない。昔から飄々としているのに鋭さを供えていたから。 「そうか…。だが、アイツらはやると、こころのなかでは思っているのではないか…?」 金澤は吉羅を切れるようなまなざしで見つめてくる。 吉羅はいつものように上手くやり過ごそうとする。ビジネスの場であれはクールで居続けることが出来るというのに、金澤の前ではそれが難しくなった。 「日野香穂子…。アイツなら必ずやり遂げる…。そう言ったほうが良いかもしれないな…」 吉羅は金澤の視線から逃れるようにビールを煽るように飲むと、溜め息を吐いた。 「…日野君は関係ないでしょう」 「…いいや。お前さんは日野によってかなり変わったさ…。学院にいた頃に戻ってきたというかな…」 金澤はフッと年齢に相応しい笑みを浮かべると、グラスを見つめる。 「吉羅よ、俺にはお前さんが最もクリスマスコンサートの成功を祈っているようにしか、思えないんだけれどな」 芯を突いて来る金澤に、吉羅は敵わないと内心では思いながらも、冷静を装い続けた。 「…そんなことはない…なんて言っても、金澤さんは納得しないとは思いますが、理事として“そんなことはない”と言っておきます」 吉羅は金澤を牽制するように言ったが、相変わらずのらりくらりと交わすような表情をされる。 「…解ったとは言わないでおこう。それは吉羅暁彦の発言ではないからな」 「金澤さん…」 吉羅は一瞬間、目を閉じると、香穂子の姿を思い浮かべていた。 明日は上手くいくように----- 心の中の一番澄んだ部分で吉羅は祈った。 クリスマスコンサートの前日は、切なく痛い夜になる。 だが明日はきっと誰にとっても悔いない一日になるだろう。 クリスマスコンサートまで後一日。 |