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クリスマスコンサートがいよいよ明日に迫った。 香穂子は今とても透明な気分だ。 いくらやってもきりはないし、妥協なんてしないけれども、それでも自分でやるべき最大限のことを行えたと思っている。 たとえどのような結果になろうとも、香穂子には後悔なんてかけらもなかった。 後悔したくなかったから。 普通科と音楽科が共存する学院を守りたかった。共存していなければ、今の香穂子は有り得ないから。 そして。何よりも、寂しい瞳をしたあのひとのこころを開きたかった。 ただそれだけでここまでやってきたのだ。 吉羅のこころを動かそうだなんて、今思えばかなり大それたことを考えたものだと思う。 あのひとの笑顔が見たかったから。 あのひとが音楽をまた愛してくれると信じたから。 最終リハーサルをするために、香穂子はアンサンブルメンバーと講堂に入っていた。 星奏学院の講堂は、クラシック専門の音楽ホール並に整備がされており、ほぼ本番会場と同じ音の広がりを感じることが出来る。 「チケットもソールドアウトしたんだからね! 学院を守りたいと思う気持ちをしっかりと音に乗せて行こうね!」 天羽は持ち前の明るさとバイタリティーで、アンサンブルメンバーにやる気をつけてくれる。 香穂子は有り難く思いながら、微笑みながら力強く頷いた。 「音楽が本当に好きなんだってことを音に託して頑張ろうね!」 そうその想いがあればきっと吉羅にも解って貰える。 音楽科や普通科の垣根を越えて作り出した音楽があれば。 香穂子はヴァイオリンを構えた。 音とこころをひとつにした仲間がいる。仲間に支えられて支えた日々があるから、こうしてヴァイオリンを落ち着いて演奏することが出来るのだ。 香穂子は静かに演奏を始めた。 不思議と今までで一番の演奏が出来る。 明日はもっと良い演奏が出来ますように。いや出来るはずだ。 リハーサルはスムーズに、今までで一番上手くいったような気がした。 リハーサルを終えると、金澤が香穂子に近付いてきた。 「出来はまあまあだな」 「まあまあ…ですか」 やはり音楽教師である金澤は耳が鋭く、厳しい意見を投げ掛けてくる。 香穂子が溜め息を吐きながら苦笑いをすると、金澤は薄く笑った。 「…吉羅のこころを動かすために必要な仕上げだ」 金澤は一本のカセットテープを香穂子に差し出した。 「金澤先生、これは…」 「聴けば解るはずだ。ある姉弟のヴァイオリンデュエットだ。これを聴けば、お前さんにとってプラスになるに違いないから」 「有り難うございます」 ヴァイオリンを奏でる姉弟。 香穂子にはたったひとりしか思い浮かばない。 吉羅姉弟。 香穂子は鼓動を激しくさせながら、カセットテープを受け取った。 「…何分テープはかなり古いものでね。生の演奏に比べるとかなり悪い。それだけは了承しておいてくれ」 「はい」 金澤が渡してくれたのは、きっと吉羅姉弟のヴァイオリン演奏だろう。 嬉しさと同時にどこか愁いを感じる。本当に聴いても良いのだろうかと。 「しっかり聴いてこころに刻みこんでおけよ」 「はい。今夜、じっくり聴かせて頂きます」 「ああ。しっかりと聴いて、明日の演奏に最大限に活かせ。でないと、俺が怒られる覚悟でこれを渡した意味はないからな」 金澤に強く頷くと、香穂子はカセットテープを大切な宝物のように撫で付ける。 「吉羅のこころをあれ程までに柔らかくしたお前さんだ。きっと仲間たちと一緒に、良い音楽で吉羅のこころを開いてくれるだろう」 「…今は、今までで一番の演奏をしたいと思うだけです」 香穂子の言葉に、金澤はしっかりと頷いてくれた。 「じゃあ明日。しっかりな」 金澤が励ますように香穂子の肩を叩き、行ってしまうと、カセットテープに視線を落とした。 香穂子は切なくて胸がキュンとしてしまうほどに、手のひらにあるカセットテープが愛しくてしょうがない。 吉羅の音を聴けばきっと答えは見つかるはず。 香穂子は何時までもカセットテープを見ていた。 リハーサルを終えてホールを出ると、みなとみらいはクリスマスイルミネーションで、町全体が宝石箱のようになっていた。 余りにも美しいきらめきに、香穂子はうっとりとイルミネーションを見上げた。 幸せな表情を浮かべたカップルたちが、街を幸せそうに歩いている。彼らの幸せを照らすように、観覧車は一際イルミネーションを派手にさせていた。 いつか、誰かと街行くカップルのように手を繋いで、幸せな気分で歩くことが出来たら良いのにと、憧れずにはいられない。 不意に吉羅と手を繋いで歩くクリスマスを想像してしまい、香穂子は顔から火が出てしまうのではないかと思うぐらいに恥ずかしくて堪らなくなった。 素敵なロマンティックが彩られたクリスマスツリーを、ふたりで見上げる。 なんてことを想像すると、暴れてしまいそうになった。 不意に香穂子の前方を、吉羅が歩いて来るのが見えた。 ひとりで誰も近付かせない雰囲気を醸し出している。 「…日野君か…」 「吉羅理事」 お互いにほぼ同時に互いの姿を認めたからか、同じような距離感を保って立ち止まった。 「こんばんは」 香穂子が頭を下げて挨拶をすると、吉羅の唇に僅かだが微笑みが零れ落ちる。 今まではこんなことはなかったと思うと、香穂子は小さな笑顔がとても嬉しくてしょうがなかった。 「コンサートの最終リハーサルがあったのか?」 吉羅は香穂子のヴァイオリンを見て、冷たい声で言う。 「はい、今日はリハーサルがあったんです。いよいよ明日ですから」 香穂子は吉羅に自信すら滲ませた笑顔で、凜と答える。 もう理事に怯えるところなんて一切ない。 自分たちがやれるところまでやったのだから、香穂子は悔いない表情で、吉羅を見ることが出来た。 「…それは楽しみだね。君達がどこまで演奏してくれるかは、私も期待しているところだよ。明日はひとりの 観客としてじっくりと聴かせて貰うことにするよ」 「はい、ベストを尽くしますから」 吉羅の顔を見つめながら、香穂子は不思議と落ち着いているのを感じていた。 焦りだとか、対抗心だとか、そんな想いすらも今はなかった。 香穂子は吉羅に向かって背筋を伸ばすと、堂々と胸を張る。 「私たちは、明日のコンサートに全力を尽くします。決して学院をバラバラにすることはさせませんから…!」 香穂子は笑みすら浮かべると、吉羅にキッパリと宣言する。 決して負けない。 私たちは負けない。 香穂子の想いを受け止めるかのように、吉羅は深く穏やかな笑みをフッと浮かべた。 大人の男性の穏やかな笑みというのは、なんて魅力的なのだろうかと、香穂子は思わずにはいられない。 思わず、魂を吸い寄せられるかのように吉羅の笑みを見つめた。 「…確かに、承っておこう…」 吉羅がフッと浮かべた笑みには、香穂子たちの成功を願ったような温もりが感じられる。 胸が甘く乱される。 これ以上ここにいれば、きっと抱き付いてしまうかもしれない。 吉羅から香穂子はジリジリと離れると、もう一度頭を下げる。 「失礼します!」 頭を上げるなり、香穂子は走って駅へと向かう。 自分でもどうして良いのかが解らないぐらいに、パニックに陥っていた。 不可解な感情に戸惑いを感じる。 だがたったひとつ確信を持てることがあった。 吉羅が好きだということ。 |