*大人になる階段*


「ねぇ! 今週の“ビエラ”で、理事長の特集記事が組まれているよ!」
 友人の興味津津な声に、香穂子は思わず振り向いた。
「そうなんだ」
 興味なさそうに呟きながらも、香穂子のこころは激しく弾み始める。
 友人にも言うことが出来ない秘密の恋の相手。それが星奏学院理事長吉羅暁彦。
 香穂子よりずっと大人で、上質なヴェルヴェットのような恋人は、背伸びをしてもなかなか追いつくことが出来ない。
 それをスマートに待ってくれている吉羅ではあるが、いつ見放されてしまうのかという不安で、香穂子はいつもいっぱいになる。
 いつも不安でたまらないから、吉羅の様々な面を知ってより近付けるようになりたい。
 だから雑誌の内容にはとても興味があった。
 なのに堂々とそれを読むのが憚れるような気がする。
 吉羅の特集がされた雑誌を、楽しそうに持つ友人を見つめながら、どのような特集が組まれているのか気が気でなかった。
「日野っち、ビエラ買って来たんだけれど、一緒に読まない?」
「あ、うんっ、読もうか」
「日野っちは理事長と接触がある割には、興味なさそうだねー! まあ渋くてカッコいいけれど、オジサンだからねー」
 香穂子は内心ドキドキが止まらないのを抑えながら、曖昧に笑う。
 自分が知っている暁彦と、雑誌に載っている吉羅暁彦とはどう違うのだろうかと、ぼんやりと考えながら雑誌に視界を落とした。
「ふむふむ、吉羅暁彦氏は、ヘッジファンドの代表者であると同時に、横浜市にある私学の名門・星奏学院の理事長である。衆議院議員である加地氏や、沢井美砂といった有名音楽家を多数輩出している名門である。経済界の風雲児で世界経済の台風の目になるだろうと言われている吉羅氏は、教育界の風雲児になろうとしている。その注目の男にスポットライトを当てて見た。…ふうん、やっぱり理事長は凄いんだねー」
 感心するように頷く友人を尻目に、香穂子は曖昧に笑うことしか出来ない。
 この記事を読んだだけでも、知らないことが沢山あり過ぎて、逆に落ち込んでしまう。
 確かに恋人ではあるはずなのに、吉羅のことを全く解らない自分に、香穂子は苛立ちすら感じてしまう。
「…うわあ、やっぱり住む世界が違うっていうか…。この間あった、財界主催のチャリティーパーティに、綺麗な女優さんを連れて出席しているよ!」
 香穂子の視線は、雑誌のページ全面に載せられた、今人気の映画女優と吉羅のショットに釘付けになる。
 パーティらしく吉羅は仕立ての良いタキシードに身を包み、女優はゴージャスな紅いロングドレスを身に纏っている。
 まるで遠い世界の出来事であるかのような気分になる。
 こんな暁彦を知らない。
 いつも香穂子の側にいて、静かに笑ってくれる相手とはまるで別人のように見えた。
 このタキシードを見つめながら、ついこの間のやり取りを思い出す。
 吉羅がタキシード姿で、一瞬だけ香穂子に逢いにきた日を。
 何処かに行くのかと尋ねたときに、吉羅は知人のパーティに参加するとだけしか答えてはくれなかった。
 香穂子が楽しそうだと言うと、仕事絡みのうえにまだ君には早い、と少し苛々しながら答えていたのを思い出す。
 あのやり取りを一部始終思い出しながら、香穂子は胸が締め付けられてしまうほどの痛みを感じた。
 あの時、逢いに来てくれたのは、とても嬉しかった。
 しかしそれは、裏を返せば、香穂子に疚しいことがあったからかもしれない。
 綺麗な女優と出席することに対しての疚しさと、ひょっとするとこころが移ろいだ疚しさもあったのかもしれない。
 頭が痛くなってしまうぐらいに、香穂子の切なさは頂点に達してしまう。吐き気を催してしまうほどだ。
「日野っち、顔色悪いよ?」
「…え?、あ…大丈夫だよ…」
 視線が泳いでしまっている。
 こんなに綺麗なひとが側にいるなら、きっと自分のことなどからかい半分に思っているに違いない。
 急に寂しくなって、辛くてたまらなくなった。
「…このふたり、やっぱり噂があるみたいだねー。吉羅理事長はモテるみたいだねー、何人目の恋人か、なんて書いてあるよ。まあ雲の上の恋と言うか、お似合いの二人というか…。まあ、確実に、私たちと住む世界は違うよねー」
 友人の声が遠いのに、こころに深く突き刺さってくる。
 住む世界が違う。
 確かにそうなのかもしれない。その証拠に、吉羅はこのパーティに香穂子を連れて行くことはなかったのだから。
 子供だから。みっともないから。何か恥ずかしい失敗をするかもしれないから。
 理由が思い付き過ぎて、香穂子はすっかり元気を無くしてしまった。
「ねぇ、日野っち、本当に大丈夫? 具合相当悪そうだよ?」
「気のせいだよ。大丈夫だってば。心配症だねー」
 丈夫だから、顔色が悪くなる程度で済むのかもしれない。
 香穂子は曖昧に笑うと、わざと友人にガッツポーズをして見せた。
「だったら良いんだけれどさ…」
「うん、マジで平気なんだ。ちょっとぼんやりしていたから、そう見えたのかな?」
「…だったら良いんだけれど…」
 心配そうに自分を見つめる友人の視線が、肌にかなりチクチクと触ってしまう。
 香穂子は溜め息を吐くと、念押しをするかのように友人に笑って見せた。

 放課後、練習室でヴァイオリンを弾く気にはなれなくて、香穂子は早々に学校を出た。
 今日は吉羅が学院に顔を出す日だが、なんとなく逢いたくはなかった。
 今朝までは、あんなに嬉しくて堪らなかったのに、今はどんよりと沈んでどうでも良くなってしまう。
 気分転換に、公園でヴァイオリンを弾いてみようと思い立ち、香穂子はゆっくりと向かうことにする。
 やはりヴァイオリンは精神安定剤の役割をしてくれる。
 学院前の道をゆっくりと歩いていると、見慣れた黒塗りの外車が横を通り過ぎるのが見えた。
 誰かは明白。だが、香穂子は気付かないふりをして先に急ぐ。
 車は少し先で減速をし、ブレーキの音が聞こえた。
クラクションが鳴る。
 きっと暁彦が自分を呼んでいるに違いない。
 だが香穂子はそれを無視して、歩くスピードを早めた。走るのに近かったかもしれない。
「日野!」
 名前を後ろから呼ばれても振り返らなかった。だが、冷や汗がぽたりと流れ落ちる。
 秘密の恋なのに、誰かに知られてしまったら、どうする気なのだろうか。
 大きいストライドで歩いているだろう足音が聞こえ、香穂子は切ない恐怖に怯えた。
 どんなに逃げたとしても捕まるような気がする。
 切羽詰まる甘い恐怖が全身に走り抜けた。
 吉羅がすぐに側にいるのは、そのオーラで解る。
 呼吸がおかしくなって、もう逃げられないことを痛感する。
「待て!」
 強い腕が伸びてきたかと思うと、いきなり強く香穂子の腕を掴んできた。
 負のオーラが食い込むようで、痛くて堪らない。
「…吉羅さん…」
 名前を呼ぶのが精一杯で何も出来ない。
「どうして逃げた…?」
 吉羅の声は相変わらず落ち着いてはいるが、香穂子を怒っているようにしか聞こえない。
「…ひとが見ています」
 香穂子は吉羅に視線を合わせないまま言うと、更に腕を掴む力は強くなる。
「…香穂子、来るんだ」
 強引に腕を掴まれたまま、吉羅の愛車まで連れていかれる。
 そのまま助手席に座らされると、車は走り始めた。



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