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いつもなら心地好いドキドキを与えてくれるシートも、今日は冷や汗が出るようなドキドキしか与えてはくれない。 ただでさえ冷たい印象の横顔に怒りを滲ませられると、恐ろしさを通り超した不安が香穂子に突き刺さった。 逃げても、結局はこうして掴まえられてしまった。 香穂子は、無言で運転を続ける吉羅の顔を、ちらりと見た。 「…学院でのお仕事じゃないんですか…?」 「そんなものはどうでも良い」 学院の経営なんてとてもちっぽけなように言い切ると、吉羅はクールに前だけを見つめる。 「…待っていらっしゃる方もいるんじゃないですか? 私はここで降りますから」 香穂子は吉羅の横顔を勝気なまなざしで見つめたが、ただ皮肉げに眉を上げられただけだ。 「君は降りなくて良いし、学院の仕事は何とかなる」 「だけど生徒としてっ!」 「黙りなさい」 吉羅は低い調子で叱責をすると、車を路肩に停めて、携帯電話を手にした。 「…暁彦です。急に用が出来ましたから、今日はそちらへは伺えません。明日、改めて参ります。ええ、有り難うございます」 敬語を使っているところを聞くと、恐らくは学院長に電話を入れたのだろう。 吉羅は携帯電話を切ると、再びハンドルを握り締めた。 「…これで、君が指摘することは何の問題もない…。だから今度は君の番だ。どうして私から逃げたんだ?」 追い詰められて、心臓が痛くて仕方がなくなる。変な緊張をする余りに、喉がからからに渇いてしまっていた。 「…逃げたつもりはないです…」 「逃げただろ…? 怒らないから、ちゃんと正直に話してくれないか?」 吉羅の声は些かトーンダウンし、香穂子を諭すように言う。 大人の男の反応に、香穂子は更に躰を硬くした。 「…吉羅さん、私…」 「ふたりの時は、“暁彦”だろ?」 「…“ビエラ”友人に見せて貰って読みました」 香穂子は言葉のひとつずつを噛み締めるように呟く。 「ああ。それで?」 吉羅は想定内とばかりに、あくまでクールな反応しかしない。その大人過ぎる態度に、香穂子は息苦しくなった。 「パーティの写真が載っていて…。あれって、この間、私を連れて行かないって言った時のもの…ですよね?」 吉羅は考えていなかった部分を指摘されたかのように、溜め息をひとつ吐いた。 「…そうだ」 「あの時、連れていって下さらなかったのは…、やっぱり私がまだ高校生で、子供でみっともないからですか?」 香穂子は息継ぎをする余裕もなく早口で呟いた。 こころがいっぱいになってしまい、このままでは泣きそうになってしまう。 切ないうえに苦しくて怖いなんて、片思いをしていた時よりも辛い感情のように思った。 吉羅は何も反応しない。きっとその通りだと思っているからだろう。 香穂子は益々惨めな気分に陥っていた。 「…吉羅さんが、私のことをみっともない子供だと思っているのは解っています…。実際にそうだし…、だ、だから、本当は私なんかに逢いたくなんかないのかなって…思ったり」 そこまで言ったところで、再び車が止まった。今度は急ブレーキを掛けられたものだから、吉羅の怒り加減を直ぐに理解することが出来た。 「黙りなさい」 畳み掛けるように言われたかと思うと、突然、唇を塞がれてしまった。 強く荒々しい野獣のように唇を吸い上げられて、香穂子は総てを奪われてしまうような錯覚に陥った。 マイナスの感情が、総て吉羅の唇によって吸い上げられていく。 こころに遺るのは切なく甘いドキドキだけだ。 シートベルトをしたままで抱き寄せられたまま、深い深いキスを受け取る。 吉羅の巧みな舌の動きに翻弄されてしまい、頭のなかがぐちゃぐちゃになってしまう。 思考回路なんてどこかに吹っ飛ばしてしまった。 ようやく唇を離されたときには、全身が切なく震えてしまう。 「…勝手に判断されたら困る。あのモデルは、私が頼んで来て貰っただけだ…。…それに、君を連れて行かなかった理由は他にある」 「他に?」 「知りたいか?」 「もちろん…」 香穂子が素直に答えると、吉羅は頬を愛しそうに撫でてきた。 「…だったら着いて来なさい。教えよう」 「はい」 いったいどのような理由があるというのだろうか。 香穂子は緊張を隠せないまま唇を噛み締める。 まるで香穂子の不安を知っているかのように、吉羅はその手を握り締めてくれた。 黙ってはいたが、こうして吉羅に手を握られることは、何よりも気持ちが伝わってくる。 香穂子はその気持ちに応えるために、そっと握り返した。 吉羅の車が向かったのは、横浜でも高級であることが知られているホテルだった。 「…ここで食事をする」 「あ、あの、こんなところでなくとも理由は話せるかと!」 このような高級ホテルに制服のままでは、何とも釣り合いが悪い。香穂子が焦っても、吉羅は何処吹く風といったところで、何も聞き入れようとはしてくれない。 吉羅は、ホテルに相応しいスタイルだから問題はないだろうが、香穂子は制服のままで、しかも髪は少し乱れてすらいる。これはさすがに拙いだろうと思わずにはいられなかった。 「わ、私、制服だしっ!」 「どちらにしろ、制服のままだとかなり問題だろう。それはここのレストランであろうと、ファミリーレストランだろうと変わりはしないだろう…」 吉羅は感情なく言うと、エンジンを切った。 「だから同じだ。それにここなら、着替えることも出来るからな」 吉羅は一足先に車を降りると、助手席側に回り込んでドアを開けてくれる。 「どちらにしろ君は私からは逃げられないよ」 低くよく通る美声で囁かれて、香穂子は背筋に幸せな旋律が走り抜けるのを感じた。 そのまま手を取られて、車を降りる。 「それに着替えて貰わないと、君に理由を伝えるのは出来ないからね…」 吉羅は香穂子の手を逃げないようにとしっかり握り締めると、そのままホテルのブティック等が入っている明るいプロムナードへと向かった。 プロムナードの端にある美容室に入ると、顔見知りであろう落ち着いた雰囲気の女性がやってきた。 「彼女を清楚に大人の女性にしてくれ」 「かしこまりました」 上得意だからなのか、普段はこんなことに慣れているからなのか、女性は落ち着いた雰囲気で対処する。 「…あ、あの…」 香穂子が戸惑いながら、定まらない視線を吉羅に向けると、静かに微笑まれてしまった。 「理由を教えてやると、言ったはずだが?」 「だ、だけど…」 「私はロビーで待っている…」 吉羅は静かに言葉だけを置去りにして、行ってしまった。 こんなことはよくあることなのだろうか。 だったらそれはそれで少しこころがチクチクする。 「さて、こちらへ見えて下さいね。あなたなら…、そうね…落ち着いた朱が似合うかもしれないわ…。ホテルだから、あなたを誰よりも美しく綺麗にしてあげるわ…。吉羅君の鼻をあかしてあげる」 女性は親しげに吉羅の名前を呼ぶと、楽しそうに笑う。 その余裕さに、香穂子はこころが鈍い痛みに支配されるのを感じていた。 この素敵なオーラを滲ませている女性と吉羅は、親しい間柄だったのだろうか。 そう考えるだけで嫉妬の鬼になりそうな自分が嫌だった。 「大丈夫よ。私と吉羅君は大学の同期ってだけで、特別じゃないからね」 まるで総てを見透かしているような微笑みに、香穂子は余裕なく笑う。 大人の女性というのは、きっと彼女のようなひとを言うのだろう。 香穂子はまた、自分が余りに子供であることを知らしめられたような気分になり、ひどく切なかった。 |