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ずっと大好きなひとがいました。 幼い頃から、それ以外は考えられないと思うぐらいに大好きなひと。 ずっと遠い存在で、手が届かないと思っていました。 香穂子は何度も鏡を見つめながら、何度もスタイルを気にしてしまう。 もうすぐ大好きなひとが家にやってくる。 だから、とっておきのワンピースを着て、何度も髪を梳いた。 これで大丈夫だと思いながらも、ついつい何度も見てしまう。 大好きなひとはずっと年上で大人のひと。 だからこそ、綺麗でいて背伸びをしなければならない。 香穂子は、花柄の上品なワンピースを何度も確認し、その度に自信なく溜め息を吐いた。 香穂子の大好きなひとは、いつも大人の美しい女性を連れている。 香穂子なんて近寄ることも出来ないぐらいに美しくて大人な女性。 そんな女性をいつも恋人にしている男性が、どう転んだとしても自分の相手をしてはくれないだろう。 香穂子は冷静に考える度に、かなり暗い気分になった。 香穂子は深呼吸をして、気を取り直してリビングへと向かう。 大好きな男性がそろそろやってくる筈だ。 香穂子の大好きな男性は、かなり時間には正確なのだ。 ひょっとすると時報よりも正確なのかもしれない。 両親は何故か落ち着かない風だった。 いつもならば、香穂子が大好きな男性がやってきたとしても、ここまでは緊張しないというのに。 今日は何故か緊張している。 香穂子の大好きな男性。 かなりのセレブリティで、ひとが思わず屈するような絶対的なオーラがある。 それもそのはずで、大会社のCEOを務めていりのだ。 かなりやり手の経済人であることは、香穂子もよく知っているところだ。 香穂子は昔からよく知っているが、たまに冷酷過ぎて驚いてしまうことがある。 それぐらいに厳しいひとなのだ。 吉羅暁彦。 香穂子の大好きな男性の名前。その名前を聞くだけで、震え上がる経済人がいるぐらいだと、香穂子は聞いたことがあった。 いよいよ吉羅暁彦がやってくる。 約束時間になると、家のインターフォンが鳴り響いた。 「…香穂子…、あのね…」 母親が言いにくそうに香穂子を見つめる。 「何?」 「…あ、うん、また話すわ…後で…」 母親の言葉に、香穂子は小首を傾げた。 どうして母親がこんなにも切なそうな顔をするのだろうか。 香穂子はその理由が分からなくて、頭を傾げる。 「お母さん、どうかしたの?」 「ごめんなさい。何でもないわ。早く吉羅さんを迎えに行きなさい」 「はい」 吉羅を出迎えるのはいつも香穂子の仕事だ。 それは幼い頃から全く変わっていないことだ。 吉羅を一番に出迎えるのが、今も好きだった。 「いらっしゃいませ、吉羅さん。こんにちは」 いつものように笑顔を向けると、吉羅は僅かにクールな笑みをくれる。 全くいつも通りだ。 香穂子にはほんの少ししか笑顔をくれたことはない。 一緒にいる女性には、魅力的な笑みを浮かべるというのに。 何とも思ってはいない証拠なのだろうと、香穂子は思った。 それは恋する女の子としてはかなり切なかった。 「両親が待っています」 香穂子は吉羅をリビングへと案内する。 吉羅は相変わらず、出来る男の怜悧なオーラを出している。 香穂子はそのオーラについ呑まれてしまう。 どうしようもないぐらいにドキドキしていた。 部屋に通すと、両親が緊張気味で立ち上がり挨拶をする。 完全に主従関係があるように、香穂子には思えた。 「お茶をお持ちしますね」 吉羅は若いには珍しく、日本茶が大好きなのだ。 香穂子はお茶を淹れた後、リビングへと戻った。 お茶を出しながら、香穂子は、両親たちがかなり緊張しているように感じた。 ガチガチと言っても過言ではなかった。 「香穂子、掛けなさい」 「はい」 父親が緊張し過ぎている声で促すものだから、香穂子は不思議に思いながらソファに掛けた。 「…香穂子…、今日、吉羅さんがうちに見えられたのは、お前のことでだ」 「私のこと?」 どんなに恋心を滲ませたとしても、香穂子を今まで無視をしてきた吉羅暁彦が、今さら何があるというのだろうか。 よく食事にも連れて行ってくれるし、優しくもある。 香穂子が、プロのヴァイオリニストになりたくて勉強しているのを、応援もしてくれている。 しかし、あくまで子供扱いなのだ。 本当にそれだけだ。 香穂子を本格的にデートに誘ってくれたことはない。 ならば話というのは、ヴァイオリンの勉強のことぐらいしか、香穂子には思い付かなかった。 「吉羅さん、お話はヴァイオリンの勉強のことですか…?」 香穂子が切り出すと、吉羅はクールな表情を崩さないまま、見つめて来た。 「それも含まれるがね」 「では、どういうことなのですか?」 香穂子は、吉羅が何を考えているのかが分からなくて、率直に訊いてみることにした。 吉羅はスッ目を細めると、香穂子を氷よりも冷たいまなざしで捕らえる。 動けない。 こんなにも冷たいまなざしの吉羅を見たことはなかった。 「…今日は君を私の妻にするために来た」 吉羅は何でもないことのように言うと、香穂子を見る。 背筋が凍り付く。 大好きな男性が自分と結婚すると言うのに、香穂子は固まってしまった。 「…あ、あの…」 何を言って言いのかが分からなくて、香穂子はただ目を大きく見開くことしか出来なかった。 「…君と私は誓いうちに結婚する。それだけだ」 吉羅は冷徹にピシャリと命令するように言い放った。 ロマンティックなかけらなんて何処にもない。 大好きな男性からのプロポーズは、ずっと華やいだ愛情に満ちた幸せなものだと思っていたのに、全くだ。 ロマンスのかけらすらない。 香穂子は唖然として、両親を見た。 「香穂子、お前は吉羅さんの花嫁になる。もう決まったことだ」 父親は苦々しい表情で呟く。そこには父親としての苦しみが滲んでいた。 「き、決まったって…、そんな…」 いきなり言われても、自分の意志はどうなると言うのだろうか。 香穂子はただ目を見開いて、両親と吉羅を見た。 「香穂子、君は私の妻になる。それは決定事項だ」 吉羅の強引な言葉に、香穂子はどうして良いのかが、サッパリ分らなかった。 「お父さん、それは既に決めてしまったことなの…?」 父親が経済界の若き帝王である吉羅暁彦には逆らえないことぐらいは解ってはいる。だがあえて、香穂子は訊いてみた。 「…そうだ…」 父親は香穂子から目を逸らす。そこには憤りのようなものがなくはない。 「…香穂子…、決まったことなのよ…。吉羅さんはあなたのいいなずけのようなものだから…。かなり前から」 両親とも歯切れが悪く、香穂子は溜め息を吐いた。 「話はそれだけだ。香穂子、今日もランチに行かないかね?」 吉羅は結婚することなど何ともないことのように言うと、素早く話題を変える。 それが香穂子には分からない。 吉羅のことは大好きではあるが、結婚をアッサリそうですかと、認められやしない。 「もっと話さなければならないことがあると思うんですが」 「話ならランチの時に聞こう。行こうか」 吉羅は香穂子の手をしっかりと取ると、そのまま離さない。 ギュッと握り締められて、今までこんなにも力強く手を握り締められるとは、思ってもみなかった。 その強さに誘われるようにして、立ち上がる。 香穂子もまた、吉羅暁彦には逆らえなかった。 |
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