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ヴァイオリニストとしてやっていくには、金銭的な豊かさというのは、かなり必要になってくる。 いつの時代も、芸術家にパトロンがいるというのは、そうはいうことなのだろうと、香穂子は思う。 芸術家として、音楽家として極めるには、相当のバックアップが必要だと言うことなのだ。 香穂子にとって、残念ながらバックアップをしてくれるひとが、今のところはいない。 バックアップしてくれるひとがいたら、ヴァイオリニストとして、もっと活躍して伸びるかといえば、そんなことは関係ないのだが。 香穂子にとっては、まだまだ昇らなければならないステップは沢山あった。 だから、パトロンだとかは、全く違う世界なのだと、自分には関係ないとずっと思い込んでいた。 そう、あの瞬間までは。 香穂子は、珍しくも財界のパーティに呼ばれて、ヴァイオリン演奏に来ていた。 緊張する。 やはり財界のパーティというのは、居心地があまり良くない。 スキルが高いセレブリティが多い印象だ。 香穂子が決して関わらない人種だ。 それに誰もが人生経験が豊かな人々のように見える。 香穂子にとっては、住む世界の違うひとたちだと感じずにはいられない人たちばかりだった。 本当にかなり充たされた人たちなのだろう。 それに世代も違う。 落ち着かないのは、当たり前だと思った。 だが、一際目立つ、男性を見つけてしまった。このパーティの中では、最も若い人なのではないかと思う。 香穂子よりも世代的に、ほんの少し上なのに、落ち着いていていかにもセレブリティな雰囲気を出していた。 ひょっとすると、財界や政界の二世なのかもしれない。 そんな雰囲気が漂っている。 二世で父親の名代なら納得がゆく。 どちらにしても、香穂子と年齢的に一番近い以外は接点はないのだが。 妙に印象に残り、心動かされる相手でもあった。 こんなにも緊張することなんてないぐらいに。 つい見つめてしまう。 目でおってしまう。 それでは、余りにも失礼だと思い、香穂子はなるべく目を合わさないように努力をした。 すると、本当に香穂子とは同世代の、いかにも育ちの良さそうな青年が、男の近くにやってきた。 笑顔が屈託なく、とても爽やかな青年だ。彼こそ、本当に父親の名代なのだろう。そんな雰囲気だ。 だが、先程の男は、青年よりは一世代上のようで、落ち着きと艶と危険な雰囲気が同居していた。 だからこそ、かなり目を引くのだろう。 「日野さん、スタンバイをお願いいたします」 「はい」 声を掛けられて、香穂子は慌ててスタンバイをする。 ある意味自分とは違う世界に住む人たちと関われて、楽しかった。 そんな人間ウォッチングな感想しか、香穂子は持ち合わせてはいなかった。 今日は、ラフマニノフの協奏曲、サティのジュ・トゥ・ヴ、お馴染みのモーツァルトの、メヌエットを編曲した、ラヴァーズコンチェルト、そして、ジュピターと、どれもお馴染みの曲をリクエストされて、香穂子は演奏する。 演奏している間は、かなり集中していて、周りが見えなくなる。 周りに翻弄されないのは、ある意味、才能だとは、言われている。 香穂子は完全に曲の世界に入り込み、温かみ溢れる愛の世界を、ヴァイオリンで表現してゆく。 ヴァイオリンを奏でている間は、いつも素晴らしき愛の世界にどっぷりと浸かって、本当に幸せな気分だった。 こんなに幸せな気分は、なかなか味わえないのではないかと、香穂子はしみじみと感じる。 それぐらいにヴァイオリンを奏でて、表現することが、香穂子のアイデンティティーになっていた。 総ての曲を演奏し終わると、香穂子は放心した気分になる。 今日もヴァイオリンを奏でられて幸せだった。 香穂子にとっては、観客がいる、いないに関わらず、ヴァイオリンを演奏するだけで、幸せな気持ちになれた。 ヴァイオリン演奏を終えて、香穂子が我に還ると、拍手をしてくれている人々が随分いた。 本当に嬉しくて、香穂子はつい笑顔になってしまう。 にっこりと笑って、深々と頭を下げた。 こうして自分自身が楽しんだ演奏を、他の人々が評価してくれることが、香穂子には何よりも嬉しかった。 温かな拍手で、香穂子は泣きそうになる。 ここまで温かに拍手をしてくれる観客はなかなかいなくて、香穂子は胸が温かくなった。 ふと、ステージから周りを見渡すと、先程の艶やかな大人の洗練を持った男と、香穂子と同世代の青年が、こちらを見て、しっかりと拍手をしてくれる。 若い世代にクラシックの良さが伝わったことが、香穂子には何よりも嬉しかった。 ステージを降りると、男と青年が静かに寄ってきた。 「日野香穂子さん!素晴らしい演奏でした!」 青年は笑顔で何度も拍手をしてくれる。香穂子も嬉しくなり、つい笑顔になった。 「有り難うございます」 香穂子はちらりと横にいる男を見る。 すると不機嫌そうな表情をしている。 気に入らなかったのだろうか。 香穂子に不安が過る。 万人に愛される音楽は難しいのはわかっているが、それでもその態度は不安になった。 「日野くんと言ったかな?君の演奏は悪くはなかった」 なんて不遜な男なのだろうかと、香穂子は思う。 いくらセレブリティだからと言って、その上から目線に驚いてしまった。 「有り難うございます……」 それは目の前の男流の賛辞なのだろうが、香穂子には余り心地好いものではなかった。 「是非、次の演奏がいつか、教えて下さい!」 青年は瞳を輝かせながら聞いてくれる。それは嬉しい。 「有り難うございます。不定期に演奏をしています。練習なら、土日に、よく臨海公園で行っています」 香穂子は、青年にならまたヴァイオリンを聴いてもらいたいと思う。 爽やかな青空のような青年に、香穂子はつい笑顔になる。 だが、隣にいるロマンス小説から出たような、嫌みなぐらいに完璧な男は、クール過ぎる。 ふと男と目が合う。 余りウマが合わないと、香穂子は直感した。 香穂子の気持ちに気づいたのか、男はフッと微笑む。 「また、聴かせて貰う機会もあるだろう。その時を楽しみにしている」 男はそれだけを言うと、颯爽と背中を向けて立ち去る。 自信を持った男の背中だった。 香穂子はその逞しく完璧な背中を見送ることしか、出来なかった。 それが吉羅暁彦との出逢いだった。 |