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財界のパーティで出逢った不遜な男性のことなど、香穂子は全く忘れていた。 香穂子は日常に戻り、いつものように臨海公園でヴァイオリンの練習に励んでいた。 防音が施されたスタジオで、ヴァイオリンを思いきり練習するのも集中出来るが、そこまでは正直言ってお金が回らない。 大学で使えるときは練習室を使わせてもらったりもするが、それではとてもでないが練習時間が足りない。 そのため、楽器練習が許されている臨海公園で練習している。 風がそよぎ、この時期は、演奏するのが、本当に気持ちが良い。 香穂子はヴァイオリンに集中する。 風が心地好く薫るせいか、ヴァイオリンの音も豊かに出る。 香穂子は、それだけで幸せな気持ちになった。 もっともっとヴァイオリンを奏でたい。 香穂子は、時間が過ぎるのを忘れて、ヴァイオリンを奏で続けた。 ふと拍手が聞こえて、香穂子は顔を上げる。 拍手の主に、香穂子は目を見開いた。 そこにいたのは、まったく思いもしないひと。 財界のパーティで知り合った、あの男だった。 「……音が伸び伸びとしているね。悪くない」 「あ、有り難うございます」 彼なりの誉め言葉なのかもしれないが、香穂子はぎこちなく挨拶をすることしか出来ない。 「パーティの時よりも、良い演奏だと、私は思うけれどね」 「有り難うございます……」 相変わらず、男はクール過ぎて、香穂子は苦手意識が高くなる。 「少し話をしたいが、構わないかね?」 いきなり話と言われても、いったい、なにを話すというのだろうか。 財界のパーティにも顔を出せるほどの男と、しがないヴァイオリニストである自分では、話が噛み合わないのではないかと思う。 「少しだけなら……。ですけど、どのようなお話を?」 香穂子は戸惑いながら、男を見た。 「音楽のことかな。私は、ヴァイオリンが好きでね」 意外な言葉に、香穂子は思わず男を見た。 「ヴァイオリンを?」 「だから君に声をかけたが、いけなかったかね?」 「そんなことはありません」 「だったら、話さないかね?ヴァイオリンの話でも」 「はい、分かりました」 名前を呼ぼうとして、香穂子は男の名前を知らなかったことに、今更ながら気付いた。 「あの」 「何かね?」 「名前を伺っていなかったと思って」 「そうだったか。私もうっかりしていたね。私は吉羅暁彦だ。星奏グループのCEOをしている」 「星奏グループ!?」 その名前を聞いて香穂子は驚く。 星奏グループといえば、誰もが知っている、一大財閥で、しかも横浜一の企業だ。 香穂子は驚き過ぎて動けない。 その星奏グループの、CEOだなんて。 あの財界パーティでも一目置かれていたはずだど、香穂子は思った。 吉羅は名刺を取り出して、何かを書くと、それを香穂子に手渡す。 「どうぞ」 「有り難うございます」 香穂子は恐縮しながら、名刺を受け取った。 「私の携帯電話の番号が書かれているから、何かあったら、連絡しなさい」 「有り難うございます」 香穂子は、まるでお守りでも貰ったような気分になった。 「では改めて日野くん、君とはヴァイオリンについて、色々と語り合いたいと思っているからね。色々と話をしようか」 「はい、お願いします」 少しではあるが、吉羅と話てみようと、思えるようになった。 香穂子はようやく、ひきつらない笑顔を、吉羅に向けることが出来た。 「この近くに行きつけの店がある。そこでランチでも取ろうか。着いてきなさい」 「有り難うございます」 香穂子は吉羅の後をおたおたとついてゆく。 吉羅は車を公園近くに停めていた。 「さあ、乗たまえ。ここから十分ぐらいだ」 「はい」 やはり吉羅の愛車は外車だった。 しかもフェラーリなのだ。 香穂子が気後れしていると、吉羅は早く乗るように促してきた。 香穂子は場違いだと想いながらも、車に乗ったです ランチだからいくら吉羅でも、カジュアルな店だと思っていたが、根本的に間違っていた。 やはり。吉羅はセレブリティなのだ。 連れていかれたレストランは、クラシックの生演奏で有名な、老舗の高級レストランだった。 香穂子も憧れているレストランで、いつかここで食事をしたり、演奏をしたいと思っていた。 夢の場所だ。 まさかランチからこのようなところだなんて、香穂子は思ってもみなくて、つい固まってしまう。 しかも、いまのスタイルは思いきりカジュアルで、とてもでないが、こんなにも敷居の高いレストランで、食事出来るようなものではなかった。 「あ、あの、吉羅さん、私の格好はまずいのではないのでしょうか……。カジュアル過ぎるというか……」 ショートパンツにスニーカー、そしてタンクトップにパーカーだ。 香穂子は、自分の格好を見るだけで、ため息を吐く。 余りにもカジュアル過ぎた。 しかも、ヴァイオリン片手だから、益々大学生そのもののスタイルで、大人の社会人、吉羅暁彦とは、全くと言って良いほど釣り合いが取れない。 これには、香穂子は泣きたくなった。 本当に、サンマー麺を食べに行くぐらいのカジュアルさだった。 「ここはドレスコードなんてないから大丈夫だ。入るよ」 「あ、あの」 「本当の意味での高級店は、ドレスコードなんて馬鹿げたものは求めないよ。だが、客がきちんとしてくるのは、それだけの接客力と格を感じさせるのだろうね。目に見えないものをね」 「目に見えないもの……」 吉羅の言葉は、ヴァイオリニストとして、香穂子に強く響いた。 「さ、入るよ」 「き、吉羅さんっ!?」 香穂子の戸惑いなんてお構いなしとばかりに、吉羅はレストランの中に入ってゆく。 腕を力強く掴むところは、かなり強引だと思う。 だが、この力強さがあるからこそ、吉羅暁彦は、一大財閥のCEOでいられるのではないかと思った。 「これは吉羅様、ようこそお越しくださいました。今日は生演奏の日ですよ」 「だから彼女を連れてきた。彼女がしっかり勉強出来る席を用意してくれたまえ」 「はい、かしこまりました」 レストランの支配人は直ぐに準備をしてくれる。 やはりかなりの上得意なのだろう。 「では、こちらへ」 「有り難う」 席に案内され、香穂子は様々な意味で緊張が取れなかった。 吉羅暁彦が、香穂子のために用意してくれた席は、ヴァイオリニストがよく見える席だ。 しかも、今日のランチの演奏者は、香穂子も憧れている有名なヴァイオリニストだった。 吉羅の粋な計らいに、香穂子は感謝せずにはいられない。 吉羅の印象が大きく変わった瞬間だった。 |