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香穂子は、ランチそっちのけで、ヴァイオリニストの指の動きを見続ける。 本当に繊細かつダイナミックな動きをしている。 これほど勉強になるものはないと、香穂子は、じっと見続けた。 本当に巧い。 香穂子は、技術の素晴らしさに、憧れを抱かずにはいられない。 吉羅は、それを咎めることなく、見守ってくれている。それが香穂子には有り難い事だった。 食事が運ばれてくる度に、苦笑いを浮かべながらも、吉羅は合図をくれる。 「日野くん、メインが来たよ」 「有り難うございます」 香穂子はつい笑顔になりながら、頷く。 料理はかなり美味しいものなのだろう。 だが、プロのヴァイオリンを見るという、“ご馳走”があるため、香穂子には霞んで見えた。 美味しい料理よりも、何よりも、香穂子にとっては、ヴァイオリンを学べることが、何よりものご馳走だった。 ヴァイオリンの演奏が終わった後、香穂子は放心状態で、ぼんやりとしていた。 本当に良い勉強が出来たと思っている。 しっかりと勉強が出来て、香穂子はそれが何よりも幸せだと思った。 「日野くん、デザートだよ」 吉羅はクールに香穂子に指摘する。 香穂子は、余韻からようやく我に還って、息を呑んだ。 「吉羅さん、も、申し訳ございませんっ。あ、あの、ヴァイオリンに夢中で……」 吉羅が一緒にいて、しかも食事に誘ってくれたことを、香穂子はほとんど忘れていた。 ぼんやりとしか認識がなかったのだ。 本当に反省せざるをえない。 「……折角、お誘いを頂いたのに、あの、私、失礼なことばかりしてしまって……」 本当になんて失礼なことをしてしまったのだろうか。 香穂子は反省する余りに、身体を小さくしてしまった。 「……あの、本当に、申し訳ございません……」 「日野くん、紅茶が冷めるよ。さ、デザートを食べたまえ」 吉羅はあくまでクールさを崩さない。それが、香穂子には余計に恐縮する原因になる。 「はい……」 香穂子は遠慮しながら、少しずつデザートを口にした。 「日野くん、君は本当にヴァイオリンが好きなのだね?」 「はい。ヴァイオリンは大好きです。だから、いつか、素敵な音色で魅了出来るようなヴァイオリニストになりたいと、思っています」 ヴァイオリンのことを語ると、香穂子はつい夢中になってしまう。 すると、吉羅が僅かに微笑んだ。 「君は本当にヴァイオリンが好きなのだね」 「はい。ヴァイオリンを演奏している時が、一番幸せです!」 香穂子はつい強い調子で言う。すると、吉羅がまた、笑みを浮かべた。 優しくて甘い笑みだ。 余りに魅力的で、香穂子はドキリとした。 こんなにも甘い微笑みが出来るひとがいるなんて、思ってもみなかった。 香穂子の魂が強く揺さぶられる。 正直、ヴァイオリン以外で、ここまで何かに揺さぶられた経験は、香穂子にはなかった。 ヴァイオリンと同じぐらいに、目の前にいる男性が、魅力的に感じる。 香穂子にとっては初めての経験だった。 「君は本当にヴァイオリンが好きでしょうがないんだね。その情熱があれば、君は誰よりも素晴らしいヴァイオリニストになれるだろうね。期待している。頑張りたまえ」 「有り難うございます」 吉羅に言われるのが、誰よりも嬉しい。 香穂子はドキドキしてしまい、頬をつい真っ赤に染め上げた。 吉羅に認められるのが、本当に嬉しくて、しょうがなかった。 ふと、先程のヴァイオリニストがテーブルにやって来た。 「暁彦さん」 まさか、憧れのヴァイオリニストがテーブルにやって来るとは思わなくて、香穂子は飛び上がってしまうぐらいに緊張してしまった。 ヴァイオリニストは、吉羅だけを情熱的に見つめている。 ふたりは旧知の仲のようだった。 ちらりと香穂子を見つめると、ヴァイオリニストはクールに微笑んだ。 「彼女が暁彦さんの新しい秘蔵ヴァイオリニスト?」 まるで小さな女の子を見つめるように見られる。 優しさと何処か心地良く感じられないものを感じて、香穂子は複雑な気持ちになった。 「はじめまして、日野香穂子と申します」 「こんにちは。随分と熱心に見つめてくれていたわね」 ヴァイオリニストは優しく話しかけてくれた。 「はいっ!憧れています。繊細でダイナミックな指の動きを拝見しながら、生で素晴らしい音が聴けるなんて幸せです。有り難うございます!」 香穂子は少し興奮ぎみに呟いた。 するとヴァイオリニストは、何処かクールな笑みを浮かべる。 「有り難う。あなたはきっと見込みがあるから、暁彦さんに拾われたのね」 笑顔でありながらも、女性は何処か辛辣だった。 バラと刺のどちらも同時に見てしまったような気持ちになり、香穂子は複雑だった。 「あなたも頑張ってね。暁彦さん、また、私にも声をかけて下さいね。では」 ヴァイオリニストは、自信があるようで、背中を綺麗に伸ばすと、そのまま立ち去る。 香穂子よりも、吉羅の方が興味があると言わんばかりの雰囲気だった。 だが、その技術はやはりプロである以上は素晴らしい。 ヴァイオリニストの背中を見つめながら、香穂子は技術を高めて、いつか追い付きたいと思った。 「吉羅さん、有り難うございます。貴重な機会を与えて下さいまして。とても勉強になりました」 「それは良かった。君の役に立ったのならば、何よりだよ」 吉羅はクールに微笑む。 「ヴァイオリニストさんと親交がおありになるということは、吉羅さんもヴァイオリンがお好きなんですね。何だか嬉しいです」 「ヴァイオリンは好きだよ。私の魂を奮い立たせるような、ヴァイオリニストを探しているのだけれどね」 吉羅は香穂子をクールだが、熱っぽく見つめてくる。 ドキリとして、香穂子は吉羅に捕らえられたような気持ちになり、動けなくなった。 「日野くん、そろそろ行こうか」 「は、はいっ」 吉羅はスマートに立ち上がると、そのまま、会計を済ませて、レストランを出る。 香穂子は慌てて追いかけた。 「あ、あの、有り難うございましたっ!」 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅はフッと笑う。 「出世払いだよ。立派なヴァイオリニストになってくれたまえ」 「あ、ありがとうございます……」 「期待しているよ。君は出世払いが出来るひとだからね」 吉羅の背中を見つめながら、香穂子の心は甘く乱れる。 吉羅に魅了された瞬間だった。 香穂子の恋が始まったのは、言うまでもなかった。
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