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吉羅に会いたい。 会いたくてたまらない。 これがどのような感情なのかは、分からないが、とにかく会いたくてたまらなかった。 だが、どのようにコンタクトを取って良いのかが、香穂子には分からない。 だが、絶対に近いうちに会えると言う確証があった。 どうしてそのような自信が生まれたのかは、香穂子自身も分からない。 ただ、必ずや吉羅に会える強い予感があった。 今日もまた、臨海公園でヴァイオリンの練習をする。 やはり、スタジオを長時間借りて練習をするというのは、金銭的にかなり厳しかった。 それに海を見ながら練習が出来るというのは、最高の贅沢のように思えた。 香穂子はひたすら練習を重ねる。 ヴァイオリンに集中している時は、本当に見えなくなるのだ。 そのせいか、誰が聴いてくれているとか、そんなことは一切、分からなかった。 拍手が聞こえて、香穂子はハッと息を呑みながら、周りを見る。 すると、吉羅が薄い笑みを浮かべながら、香穂子を見つめていた。 穏やかな陽射しを浴びながら、眩しいぐらいに素敵な吉羅が、こちらを見つめている。 「見事なヴァイオリンを聴かせて貰ったよ。有り難う」 吉羅に誉められると、香穂子は天まで一気に飛んでしまえるぐらいに、嬉しくなる。 「有り難うございます」 「だが、まだまだ、改善の余地はありそうだがね」 香穂子を誉めるのと同時に、厳しさも忘れてはいない。 吉羅らしいと思う。 「はい、まだまだです。技術的には特に……」 「だろうね。君の表現力は、見処があるが、それ以外のところはまだまだだ。特に技術的にはね」 吉羅は的確に言う。 流石は、音楽に精通しているだけはあると、香穂子は思う。 真摯に受け取らなければならない。 「そのためにも、沢山、練習しなければならないです。だからこうして、練習しているんですよ」 「その努力は認めよう。君はかなり頑張っている。だが、闇雲に頑張っているだけだ。誰かに、ヴァイオリンを見てもらっているのかね?」 「大学で」 「……ほお……」 吉羅は、香穂子を冷たい目で見つめる。それでは全く足りないとばかりに。 「大学の授業ぐらいでは、伸びないよ」 「……解っていますが」 特別にヴァイオリンを見てもらう講師をつけるほど、香穂子は経済的に豊かではない。 ヴァイオリンは、色々とお金がかかる。 弦ひとつとってもだ。 ヴァイオリンを維持するだけでも、大変なのだ。 「……なかなかそこまでは出来ないです。資金的に厳しいので、なるべく、大学で指摘して貰うようにしています」 「気合いだけは充分だね」 吉羅は優秀なビジネスマンだからか、その辺りは冷静に分析しているようだった。 「気合いだけでは上手くならないのは、解っています」 「そうだね。これより上を目指すには、更なるヴァイオリンの技術を磨かなければならないね。どうかね、私が、資金面で、君にサポートするというのは」 吉羅はあくまで何てもないことのように言うと、香穂子に何処か甘さと厳しさが交差したような眼差しを向けてきた。 ドキドキする。 吉羅の言葉に、香穂子は息を飲む。 今までこのようなことを申し出てくれたひとはいなかった。 このような申し出が、まさか自分に起こるなんて思ってもみなかった。 「ビジネスを展開するものが、芸術家を支援するということは、よくあることだろう。そんなに驚かなくても良いだろう」 吉羅はあくまで淡々としている。 「良いヴァイオリン講師を知っているから、君につけられる。君も集中的に技術を身につけたほうが良いだろうからね」 「それは、そうですが」 吉羅は、香穂子をじっと見つめる。 まるで香穂子を捕らえるような視線に、逃げられなくなる。 とても魅力的な申し出だ。 「有り難うございます。とても嬉しいです……。あ、あの、だけど……」 香穂子は言葉を揺らがせる。 こんなにも良くしてもらっても、香穂子は何も返せない自分に、どこか苛立ちを覚えた。 「……吉羅さんには、出逢ってから良くして頂いています。とても有り難いです」 「私は、大したことはしていないがね」 「そんなことは有りません。私は、吉羅さんに、本当に良くして頂いてます。だから……、その、返せなくなってしまうのが嫌なんです。出世払いが出来ないのが、嫌なんです……」 香穂子は、今は無理でも、将来的には、吉羅にしっかりと恩を返したいと思っている。だが、それが出来るのかどうか、自分でも全く分からないのだ。 まだまだなのは、充分過ぎるぐらいに解っているからだ。 「……。そうか。私は、何も君に、無償でとは言ってはいないよ。経済界で無償で何かを行うということは、基本、あり得ないからね。例えば、慈善事業をしたとしても、それはいずれは何かの形で還ってくるのは解っているからね。そして、今まで得た利益を還元するという、面もある。形の有り無しでは関係なく、金という具体的なものではなくとも、還すことは出来る。これは経済界の常識だよ」 「経済学には疎くて」 「……まあ、経済という視点でなくても当てはまるとは思うけれどね。カーネギーやヒルの本を読むことをお勧めするよ。君のキャリアにも役立つだろうからね」 「はい」 経済学だとか、ビジネスだとかは、香穂子には小難しくて、なかなか理解できないが、読む価値があるような気がした。 「そこで日野くん、君に提案だ」 吉羅は、一流のビジネスを仕切る者としての鷲のような目を、香穂子に向ける。 「私は、君がヴァイオリニストとして成功出来るようにサポートをする。その代わり、君に要求する。私と愛人契約を結ぶこと」 吉羅は、事務的にあくまでクールに呟く。 香穂子は、考えもしなかった欲求に目を見開くしかない。 愛人契約。 それが何を意味するのか。 分からない香穂子ではない。 決断しなければならないのは解っている。 だが、それが揺らぐのは確かだった。 香穂子にとっては、人生の岐路に立つような、重大な結論を迫られている。 決断出来るだろうか。 表面上はかなり不安に思っているのに、香穂子は自分が下す結論は解っていた。 香穂子は深呼吸をして気持ちを整えるとゆっくり吉羅を見る。 深い部分で決めている結論を伝えるために。 「……吉羅さんの提案を受け入れます……!」 それは、香穂子にとっては、大きな賭けでもあった。
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