*愛人契約*


 吉羅の愛人になる。

 それがどのようなことか、理解できない香穂子ではない。

 芸術家とパトロンのよくある関係だ。

 だが、吉羅のような、容姿も地位も完璧な男が、どうして自分なんかを愛人にしようとしているのか、香穂子には分からない。

 吉羅ならば、よりどりみどりだろう。

 香穂子は切なく重い気持ちになりながら、吉羅を見た。

 あれほどまでに大胆な提案をしたにも関わらず、吉羅はクールだ。

「きちんとした契約内容にするから、そのつもりで。私は、君が素晴らしいヴァイオリニストになるように、力を貸すつもりだ」

「……有り難うございます……」

 きちんとした契約内容。

 この契約は、吉羅にとっては、単なる雇用契約のように思えてならなかった。

「日野くん、悪いようにはしない。私は、君が素晴らしいヴァイオリニストになることを、誰よりも願っているからね……」

「あ、有り難うございます……」

 吉羅が、香穂子に本当に心から、ヴァイオリニストになって欲しいと思ってくれているのだろう。

 それは有り難く、嬉しいことだった。

「これは契約だ。きちんとした契約書を作っておくから、取りに来て欲しい。その際に、きちんと説明をするから。そうだね、明後日に」

 吉羅はメモを書いて、香穂子に名刺を手渡した。

「有り難うございます」

「なにかあったら、また言って欲しい」

「有り難うございます……」

 名刺を受け取りながら、香穂子はもう後戻りが出来ないことを、ひしひしと感じていた。

「では、私は、これから仕事があるから、これで失礼する。何かあったら、携帯電話で連絡をしてくれ」

「はい。有り難うございます」

 良し悪しは颯爽と立ち去る。

 その後ろ姿を見つめながら、香穂子は胸の端がジクジクと痛むのを感じていた。

 

 吉羅との約束の日、香穂子は覚悟を決めて、会社に向かう。

 吉羅は嘘は言わなかった。

 援助をするとだけ言って、後から関係を強要されてしまうよりは余程良いと、香穂子は思う。

 だから、少なくとも、騙されることはないのではないかと、香穂子は思った。

 きちんと“契約書”として残してくれるところは、かなり吉羅らしいとは思った。

 とは言え、かなり緊張してしまうのは確かだ。

 あの、吉羅なのだ。

 将来は、経済界を牛耳ると言われている、あの吉羅暁彦なのだ。

 相手が大物過ぎるのだと、香穂子は今更ながらに感じていた。

 吉羅が経営している会社のビルに到着し、香穂子は正面で見上げずにはいられなかった。

 通称で“吉羅タワー”と呼ばれるビルは、香穂子を凌駕してしまうほどの力を持っている。

 見上げているだけで、息が出来なくなるぐらいの圧迫を感じた。

 相手は、この無機質な塔の主なのだ。

 このことに対して、香穂子は今更ながら震える。

 だが、負けてはいられないのだ。

 香穂子にとって、吉羅暁彦は、これからのサクセスのキーを握る男なのだから。

 ほんの一ヶ月前の自分が、このことを想像出来ただろうかと、香穂子は思う。

 本当に、人生は短い時間で劇的に変わってしまうものだと、香穂子は肌で感じていた。

 さあ、乗り込まなければならない。

 戦闘が始まるのだ。

 相手は吉羅じゃない。

 自分だ。

 絶対に負けられない闘いなのだ。

 香穂子は深呼吸をして気持ちを整えると、背筋を伸ばして、吉羅タワーへと向かった。

 受付で声をかけると、直ぐに案内をしてくれる。

「伺っております。吉羅は、CEO室で待っております。こちらがセキュリティを解除するカードキーでございます」

 受付担当にカードキーを差し出され、香穂子は慎重に受け取った。

「有り難うございます」

 大企業グループのCEOともなると、やはりセキュリティを完璧にしなければならないのだろう。

CEO室は80階でございます。エレベーターでお上がり下さいませ。こちらのエレベーターをお使いくださいませ。80階は、セキュリティキーがなければ向かえませんので、エレベーター乗られましたら、基盤の横にあるリーダーで読み込んで下さいませ」

「有り難うございます」

 香穂子は頷くと、指し示されたエレベーターに乗り込む。

 セキュリティキーをリーダーに読み込ませると、エレベーターが80階を示した。 

 その瞬間、香穂子は緊張せずにはいられない。

 今から愛人契約を結びにいくのだから。

 これからは、芸術面で沢山の支援が受けられる。

 だが、それと同時に一番大切なものを売り渡してしまうような気持ちになった。

 エレベーターの表示が、80階を示す。

 同時に、エレベーターが静かに到着した。

 香穂子は襟をただす。

 これから、戦闘に向かう気分だ。

 香穂子は、セキュリティをくぐり、吉羅の待つCEO室へと向かった。

 敵の中に飛び込んでゆくような気分だ。

 香穂子は、CEO室の前までやってくると、再び深呼吸をした。

 激しく鳴り響く鼓動を抑えるためだ。

 香穂子はノックをする。

「吉羅さん、日野香穂子です」

「入りたまえ」

 吉羅の声が聞こえて、香穂子はドアを静かに開けた。

「失礼致します」

 香穂子が部屋の中に入ると、スーツを完璧に着こなす吉羅が立ち上がる。

 圧倒されてしまうような存在感に、香穂子は息を止めた。

 それぐらいに吉羅は素晴らしい。

 匂い立つような大人の男の魅力に、くらくらしそうだ。

 完璧なまでに整っている。

 香穂子はそう思わずにはいられなかった。

「日野くん、かけたまえ」

「有り難うございます」

 吉羅に、革張りソファに座るように促されて、香穂子はぎこちなく腰を掛ける。

「さて、話をしていた契約の話だ。私は、君が素晴らしいヴァイオリニストになれるよう、資金面で力を貸す。その代わり、君は、私が望むときに、ヴァイオリンを奏で、呼び出しに応じること。この契約の間は、誰かと付き合うことは、基本、認めない」

 吉羅は厳しい口調でキッパリと言い切った。

 解っている。

 愛人契約を結ぶのだから。

「はい……」

 声が小さくなる。

 だが、守るつもりでいる。

 吉羅の都合や希望に添わなければならないことを、解っているから。

「そして、もうひとつ。私と一緒に暮らすこと。それが私からの条件だ」

 吉羅は香穂子の目を真っ直ぐ見て、条件を突きつけてくる。

「……吉羅さんと、暮らす……」

 香穂子は吉羅の言葉を反芻することしか、出来なかった。

 

 



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