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吉羅と一緒に暮らす。 まさか、このような条件が突きつけられるなんて、香穂子は思ってもみなかった。 愛人とは、都合の良い時に呼び出されると思っていた。 パトロンが望む通りに動かなければならないことも、香穂子は解っていた。 だが、それ以上の束縛を吉羅は望んでいる。 だが、同時にそれは、吉羅が香穂子に束縛を受けることも示していた。 「これはきちんと受け入れて貰うことになる。日野くん、それも含めての契約だ」 吉羅は、優秀なビジネスマンらしく、香穂子にまるで商品を見るかのような視線を送り、淡々と契約書を差し出す。 これぞ事務的な対応の極みだと、こちらが思わずにはいられないような視線を向けてくる。 仕方がないことだ。 吉羅にとって、香穂子はあくまで投資対象なのだから。 逆らうことなんて出来る筈もない。 香穂子は一人暮らしであるから、確かにその分、費用は浮くのは確かだ。 両親からの仕送りでは、やっていけていないのが実状だからだ。 そのためアルバイトをする。練習時間がなくなる。スタジオを借りるまでの費用が捻出出来ない。 そんな悪循環の繰り返しだった。 それ故に、吉羅の申し出は、魅力的ではある。 この契約を受けると決めた時から、覚悟なんて出来ていた筈なのだ。 なのに、心はかなり揺れる。 揺れるのは解っている。 吉羅に総てを支配されてしまうような気分だからだ。 もし、それが、違った方法であったのならば、香穂子の気持ちは変わっていたかもしれない。 もっと明るくて、幸せな感覚を抱いていたのかもしれない。 それは香穂子も解っていた。 考え込んでいるわけではない。 戸惑っているわけでもない。 結論はとうに出ているのだから。 しいて言うのであれば、きっと、香穂子の気持ちが重いということだけなのだ。 理由は、本当にそれしかなかった。 「考える時間が必要かね?」 吉羅は氷河よりも冷たい声で訊いてくる。今更だと呆れているのだろう。 「大丈夫です」 香穂子が気合いを入れて言うと、吉羅は当然だとばかりに、眉を上げた。 「吉羅さん、解りました。一緒に暮らします」 香穂子は腹を括ってもまだ足りないとすら思いながら、吉羅を真っ直ぐ見つめた。 「結構。君は良い顔をしている。きっと素晴らしいヴァイオリニストになれるだろう」 「有り難うございます」 素晴らしいヴァイオリニスト。 香穂子が今、一番なりたいもの。 一番欲しい地位だ。 だが、それにはまだまだ道程は遠いのだ。 今、ようやく小さな一歩を踏み出したに過ぎない。 香穂子にとっては、大きな一歩であるが。 「日野くん、こちらが契約書だ。じっくりと読んで、サインをしてくれたまえ」 「はい」 香穂子は吉羅から差し出された契約書を手に取ると、それをじっくりと読む。 何処にも“愛人契約”の文字はないし、具体的な内容も一切書かれてはいなかった。 ただ、香穂子が、星奏グループと契約を結び、ヴァイオリニストとして、優先的に仕事をすることが、明記されていた。 その仕事は、吉羅家に住み込みで行うと書かれている。 暗に愛人として契約するという含みなのだろう。 切なくて苦しい裏側だと、香穂子は思った。 手のひらに汗がにじむ。 サインをするには、余りに緊張してしまう。 だが、ヴァイオリニストとして、一人立ちするには、一時的に、吉羅の力が必要なのだ。 「……サインします」 香穂子は手を僅かに震わせながら、契約書にサインをする。 これで本当の意味で、吉羅の愛人となったのだ。 「契約成立だね」 「はい」 吉羅はクールな表情のままで、香穂子に手を差し出す。 「握手だ。契約締結だ」 「はい」 香穂子はおずおずと吉羅の手を取る。すると吉羅にしっかりと手を握られて、力強く握手をしてきた。 「これで成立だ。よろしく頼む」 「よろしくお願いします……」 これで退路が断たれた。 香穂子は、進むしかないと思った。 「日野くん、早目に引っ越してきてくれたまえ。引っ越し業者はこちらで手配をする」 「はい」 いよいよ始まるのだ。 吉羅との共同生活が。 気負わずにはいられない。 香穂子は緊張し過ぎて、潰れそうになる。 だが、それは、重圧とは違った甘い苦しみがあった。 息が出来なくなるぐらいの甘い苦しみに、香穂子は、酸欠になってしまいそうだった。 目の前にいる吉羅を見上げる。 本当に完璧だ。 容姿は完全無欠のロマンス小説のヒーローのようだし、有数の企業体を自らの手腕で立て直して大きくした、かなりの経済人。 何処にも欠点なんてないのではないかと思ってしまうぐらいに、完全無欠の男だ。 このような男は、何処を探してもいない。 愛人になりたいと志願する女性なんていくらでもいるだろう。 なのにどうして自分なのか。 そこだけが香穂子には理解できなかった。 香穂子はもう一度、吉羅をしっかりと見つめる。 すると、皮肉げに薄く笑った。 「君と一緒に生活が出来ることを楽しみにしているよ」 吉羅はクールに呟くと香穂子を、それ以上に冷たい視線で見つめてきた。 吉羅からはとうてい逃げることなんて出来ない。 香穂子は強く実感した。 香穂子は、直ぐに引っ越しの準備を始めた。 吉羅の家に住み込みをするかんて、考えられないことだ。 家具は一切いらないと言われ、今持つ家具は、吉羅の会社のトランクルームで、総て預かってくれるとのことだった。 そうするとかなり荷物は少なくなる。 香穂子は直ぐに荷物がまとめられてしまい、引っ越しの準備は直ぐに終わってしまった。 質素なワンルームであったから、そんなにも荷物はないのだが。 吉羅が手配をしてくれた引っ越し業者が来てくれ、荷物を運んで行ってしまう。 香穂子は、吉羅が手配した運転手と中年のかっちりとした女性が迎えに来てくれた。 「日野さん、CEOから伺っております。CEOの自宅までお送り致します」 「有り難うございます」 香穂子は、車に乗せられて、吉羅の自宅まで連れていかれる。 吉羅の自宅は、横浜の山手にある、閑静な住宅街にある、美しくもロマンティックな洋館だった。 本当に絵を描いたような男だと思う。 この麗しい館で、吉羅との時間が始まるのだ。 吉羅とふたりでこのような洋館で暮らすなんて、香穂子は、これがロマンスを感じずにして、何を感じるのだろうかと思った。 吉羅との生活で何が待ち受けているのか。 香穂子には想像出来そうになかった。 不安と期待等、様々な感情が入り雑じるなかでのスタートとなった。
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