*愛の願い*


 ヴァイオリンは何処でも弾けるから。
 この学院にいなくても、趣味で続けることが出来るから。
 学院を去らなければならないのは苦渋の決断だが、ヴァイオリンはどこでも続けられ俐。
 香穂子はその覚悟の上で、学院長室に向かった。
 突然、両親を亡くしたのは二週間前。
 不慮の事故だった。
 ようやく落ち着いたものの、香穂子には否応のない現実を突き付けられた。
 経済的に最早ここでヴァイオリンを続けて行くこっが出来なくなってしまったのだ。
 星奏学院は、音楽家になるには最良の教育を施してくれるといわれている名門私立校だ。それゆえに、学費もかなり張る。
 ヴァイオリニストになるという夢を叶えるためにと、香穂子の両親が無理をして入れてくれた学校なのだ。
 だが、その両親もいない。
 親戚もいない香穂子には、もう学院でヴァイオリンの勉強を続ける程の余裕など、残されてはいなかった。
 退学する。
 その覚悟を持って、香穂子は学院に帰ってきたのだ。
 高校生活の残された一年間は、普通公立高に転入するつもりだ。
 それでもひとりで生活をしていくには、かなり切り詰めなければならない。
 寮で生活をする生徒も多く、香穂子は寮生だったが、寮費を最早払うことは難しくなってしまった。
 学院長に呼び出されたのは、寮に戻って直ぐのこと。
 きっと今後のことを訊かれるのだろう。
 香穂子は溜め息を吐きながらも、気丈に自分の覚悟を伝えるつもりだ。
 ぼんやりとブルーな気分で歩いていると、一瞬、宝石よりも眩しいきらめきに香穂子はハッとした。
 ちょうど、長身の男性が院長室から出て来るのが見える。
 がっしりとしているのに引き締まった躰が印象的なシルエット。まるでしなやかな獣のように見える。
 仕立ての良いスーツを着こなし、何処から見ても隙など見当たらない男性だ。
 サングラスを掛けていたことや、遠かったので、顔までは窺い知ることは出来なかったが、その成功者のオーラだけは、香穂子にも感じることが出来た。
 何故か惹かれた。
 シルエットだけでこんなにもときめくだなんて、今までの香穂子には有り得ないことだった。
 まるで魂を奪われたかのように、香穂子はただじっと魅入られていた。
 男が行ってしまった後、香穂子はゆっくりと院長室をノックする。
「院長先生、日野です」
「はい。入りなさい」
 香穂子がゆっくりと慎重に部屋の中に入ると、院長が優しい笑みを滲ませて待ち構えていた。
「日野さん、どうぞ掛けて下さい」
「はい。失礼します」
 香穂子がゆったりとソファに腰を掛けると、院長は真っ直ぐ慈愛のある瞳で香穂子を見つめてきた。
「今回は大変だったね…。よくひとりで頑張ったものだ」
「有り難うございます。皆さんがお気遣いを下さったので、何とか頑張ることが出来ました」
「よく頑張りましたね。それで…今後のことだが…」
 今後のこと。覚悟をしていた質問だ。
 もう自分でどうするか決めたのだ。
「色々考えましたが、やはり経済的にヴァイオリンを続けていくのは厳しいです。だから公立高に編入するつもりでいます。今までお世話になりました」
 香穂子が頭を深々と下げると、学院長は静かに首を横に振る。
「学院をやめる必要はないですよ、日野さん」
「え…?」
 経済的にかなり厳しい以上は、今の香穂子には学院での勉強を続けていくことは出来ない。
 続けるなどという選択肢は有り得ないはずなのに、学院はそれをあえて言ってくる。
「…経済的に厳しいですから、私には続けるという選択肢はないんです…」
 切ない想いに駆られながら、香穂子がポツリと力なく言うと、学院長はフッと笑みを浮かべる。
「…大丈夫です。君は何も心配しないでヴァイオリンの勉強を続けなさい。…実は…、君がこのままヴァイオリンを止めてしまうのは勿体ないと、援助を申し出てくれたひとがいるんですよ」
 学院長の想像だにしなかった言葉に、香穂子は驚いて息を呑む。
「あ、あのっ! それってどなたですかっ!?」
 今時、芸術家の卵のために援助をしてくれるひとがいるなんて、香穂子には信じられないことだった。
 心臓が跳ね上がってしまうほどにドキドキしてしまい、香穂子は学院長を見つめる。
「その方はどなたですかっ!? きちんとお礼を言わなければなりませんから、教えて下さいっ!」
 香穂子が嬉しい興奮に言葉を揺らすと、学院長は落ち着いた笑みを浮かべるだけだ。
「約束があって、私からは言えないことになっている。先ほどもそのことで来て下さっていていたんだよ」
 学院長の言葉に、香穂子はハッと息を呑む。
 ひょっとすると、先ほど見た、うっとりしてしまうほどに素敵なシルエットの持ち主なのかもしれない。
 香穂子の鼓動は暴走しそうになってしまい、喉もからからに渇いてしまう。
「あ、あのっ! その方は背の高い脚の長い感じの方でしたか…?」
 香穂子の言葉に、学院長は一瞬驚いたようだったが、直ぐにいつもの笑みに戻った。
「ご想像にお任せしましょうか。君の」
 それだけを言うと、学院長は再び香穂子に向き直る。
「ただし、援助を受け取って貰うにはひとつだけ条件があるんだよ。学院での生活やヴァイオリンについての評価等を、週に一度で構わないからその方に報告をして欲しいのだ。方法は手紙やメールでお願いするよ。アドレスはこちらだ」
 学院長から差し出されたメモを受け取り、香穂子はそれに視線を落とす。
 どちらも援助をしてくれるひとの身元は分からなくしてある。
 匿名性の高い住所と、メールアドレスになっていた。
「分かりました。報告を毎週します! あ、あの、最低でも週一度という解釈で構わないですよね? 何か直ぐに報告をしたいことがあったら、その都度でも構わないですよね?」
「それで構わないよ。週一度以上でもむしろ喜んで下さると思うよ」
「はい。有り難うございます」
 こんなにロマンティックな小説のような展開があるのだろうか。
 先ほど見た男は、ひょっとして支援者の秘書かもしれない。
 その後ろ姿を思い浮かべながら、幸福の使者だと思わずにはいられなかった。
 香穂子は、見ず知らずのひとにこんなに親切にして貰えるなんて、思ってもみなかった。それゆえに感謝のこころが溢れ出てくる。
「その方は君の演奏を高く評価してくれている。だからこれから益々頑張るんだよ」
「はい。有り難うございます」
 香穂子は深々と頭を下げると、泣きそうになる。
 何処かの知らない親切なひとが、手を差し延べてくれたのがたまらなく嬉しい。
 香穂子は神様に感謝しなければならないと、強く思った。

 寮へと戻る帰り道に、香穂子は教会に立ち寄る。
 そんなに敬虔な信者ではないが、これは感謝しなければならないとつくづく思った。
 教会に入り、香穂子は祈りを捧げる。
 天国に行ってしまった両親にも強く感謝をした後で、香穂子は教会を出た。
 高級外車が、駐車場に入ってくるのが見える。
 きっと熱心な信者なのだろう。
 香穂子が教会敷地から出ようとした時だった。
 うっとりとしてしまうような動作で、ひとりの男が車から出てきた。
 その姿に香穂子は息を呑む。
 間違いがなければ、先ほど学院で見掛けた男に違いない。
 香穂子が近付こうとすると、男は鋭いナイフのような雰囲気を滲ませて、墓地に向かう。手には豪華なカサブランカの花束が抱えられている。
 圧倒されて、香穂子は声を掛けることが出来なかった。
 その広い背中を見つめながらも、胸が痛くなる。
 こんなにも孤独な背中を、今まで見た事はなかった。



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