1
日野香穂子をステージに立たせるな。 立たせたならば、ステージ上で殺す。 そんな書き込みがインターネット上でなされたことを、吉羅は警察から報告を受けたのは、柔らかな秋の午后だった。 来月にはみなとみらいホールで、香穂子の初めてのソロ・ヴァイオリン・リサイタルが開かれる。 それを狙った反抗なのだという。 吉羅はそれを聞くなり、深い皺を眉間に刻み付けた。 香穂子にとってはようやく第一歩を踏み締めたばかりだというのに。 吉羅は禍々しいとしか思えなかった。 「とにかく、警察としては、書き込みが誰によってなされたかを特定するように努力致しますが、それまでは日野香穂子さんの安全を優先させる為に、色々とご協力頂かなければならないと思いますので、宜しくお願い致します。私たちも全力で日野さんの身の安全を確保致しますから」 ハイテク犯罪課の刑事は神妙な面持ちで言いながら、吉羅を見た。 「日野香穂子は本学の学生ですから、その身の安全は確保するつもりです」 「ご協力感謝致します」 刑事は軽く会釈をする。 理事長室にノックが鳴り響く。 「理事長、日野です」 「入りたまえ」 香穂子はいつものように理事長室に入って来たが、見慣れない顔に戸惑いを隠せないようだった。 「あ、あの…、理事長…」 香穂子が小首を傾げると、吉羅はゆっくりと頷いた。 「こちらは神奈川県警のハイテク犯罪課の刑事さんでね、君に話があって来られたんだよ」 吉羅の言葉を聴きながら、香穂子は怪訝そうに小首を傾げている。 「日野君、座りたまえ」 「はい」 不安そうな香穂子の横に、吉羅もゆっくりと腰を下ろした。 「…実はインターネット掲示板に、あなたの殺害予告が掲載されたんです」 「…私の…殺害予告…」 淡々と話す刑事を尻目に、香穂子の表情は、かなり暗いものになってしまっている。 顔色が対照的だった。 「…来月にみなとみらいホールで行われるあなたのリサイタルを開催した場合は、あなたを殺害すると…」 「…そんな…」 香穂子は声に出来ないような声をあげると、これ以上は話せないようだった。 全身が小刻みに震えているのが解る。 このまま強く抱き締めてやりたいと思ってしまう程に、香穂子は震えていた。 「…警察としても…、書き込んだ人物の特定を急ぐと共に、あなたの身の安全を確保致します。だから安心されて下さい。吉羅理事長も、あなたの身の安全を確保して下さるそうですから」 「私の出来る限りの事を行なう。だから君は、リサイタルに向けてしっかり練習をしておくんだ」 吉羅は力強い声で保障するように言ったが、香穂子はそれでも不安そうに吉羅を見つめた。 「大丈夫だ」 「…はい…」 香穂子を抱き寄せて慰めたかったが、刑事の手前そうはいかなかった。 「日野さんの自宅はセキュリティがなされていますか?」 「普通の家なので特にそこまでは…」 「そうですか…」 刑事は困り果てたとばかりに溜め息を吐く。 警備上の問題が生じるのだろう。 それならば、香穂子を自分の自宅に連れて行くのがベストではないかと、吉羅は思った。 「…私の自宅はミッドタウンにあるのですが、あの場所ならば…、きちんとセキュリティはなされていますし、守衛もホテル並にいます。この騒動が収まるまでは、日野君をうちに置いたほうが良いかもしれませんね。リハーサル会場にもスタジオにも大学にも…。日野君を送って行くことが出来るでしょうから」 「…確かに、そのほうが良いかもしれませんね」 刑事も頷いてくれたが、肝心の香穂子を見ると、困り果てたような顔をしている。 「…あ、あの…、理事長はそれで構わないのでしょうか?」 「私は構わない。君が通う範囲と私が行動する範囲は、全く同じだといっても過言ではないからね」 吉羅の言葉に香穂子はほんの少しホッとした表情をした。 「では、日野君、君は当分うちで暮らしなさい。荷物は、一緒に取りに行こう」 「有り難うございます」 香穂子は何処か落ち着かないような気がする。 だがしょうがないとばかりに、半ば諦めているようだった。 「では、吉羅さん、日野さんをくれぐれも宜しくお願いします」 「解りました」 「ミッドタウンの所轄に連絡をしておきます」 「お願いします」 吉羅が深々と頭を下げると、刑事は軽く会釈をして理事長室を出て行った。 吉羅とふたりきりになって、香穂子は泣きそうな表情で溜め息を吐く。 「…理事長…、ごめんなさい…。面倒なことに巻込んでしまって…。一体…誰がこんなことを…」 「そうだね…。早く捕まれば良い」 香穂子を傷つけようとする人間がいるなんて、信じられない。 そんな者は、赦されるならば踏みつぶしてしまいたい。 吉羅は感情を何とか押え付けると、軽く深呼吸をした。 「では、仕度をしたまえ。直ぐに君の家に荷物を取りに行こう」 「…有り難うございます…。理事長には、本当にお世話になります。お仕事は大丈夫なんですか?」 「大丈夫だ。そのようなことは心配しなくても良いんだ。君は」 香穂子は頷いた後、ソファから立ち上がると、深々と頭を下げてきた。 「では、行こうか」 「…はい…」 吉羅は、このまま手を引いて連れて行きたいと思いながら、荷物を手に取り、理事長室を後にする。 心許無い香穂子を、しっかりと抱き締めたかった。 ようやくヴァイオリニストとして第一歩を踏み入れたところだったのに、殺害予告なんて、青天の霹靂だった。 こんなことになるなんて、想像することすら出来なかった。 リサイタルをようやく開くことが出来る。 これで吉羅と対等にいられる。 そう思った矢先に、こんなことになるなんて、思ってもみないことだった。 だが。 良いこともある。 吉羅が香穂子をこれほどまでに心配をし、気遣ってくれたからだ。 今までは、このようなことはなかった。 吉羅の家に行くと言われた時には、正直言って驚いてしまったが、嫌ではなかった。 だが、戸惑いはある。 大好きな男性の家に行くのは、ほんの少しだけ恥ずかしかった。 吉羅と一緒に暮らすなんて、今までは想像すら出来ないことだったからだ。 吉羅は駐車場で、フェラーリに乗せてくれる。 たまにランチを共にする時に乗せてもらえる、香穂子にとっては特別な車。 だが今日はこれから一緒に吉羅の家に行くのだ。 そのせいかいつもよりもかなり激しく緊張してしまった。 吉羅は学院からほど近い香穂子の家まで、車を走らせてくれる。 「荷物は取り敢えずは、どうして必要な最低限のものだけを持って来なさい。歯ブラシだとかタオルといったものはうちにもあるから使うと良い」 「有り難うございます」 香穂子は礼を言いながら、頭の中で持って行かなければならない荷物を考える。 短い期間だろうから、恐らくは厳選した荷物だけで大丈夫だろう。 香穂子は直ぐに家に帰れるだろうと楽観視しながら、頭の中で荷物のピックアップをしていた。 吉羅の車で自宅に到着した後、急いで部屋に向かって荷物をまとめる。 厳選したとはいえ、女の荷物だ。 かなりの量になった。 スーツケースに当座の荷物をパンパンに詰めこんで、吉羅の車に向かう。 「お待たせ致しました」 香穂子が声を掛けると、吉羅はトランクにスーツケースを詰め込んでくれた。 「さあ行こうか」 「はい」 車に乗り込むと、吉羅は六本木に向けて走らせてくれる。 「…日野君、君のことは全力で守る。何も心配しなくても構わない」 「…有り難うございます」 吉羅の言葉が嬉しくて、香穂子は泣きそうになった。 |