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吉羅のカテゴリーで生活をすることになるなんて、想像したこともなかった。 ずっとひたすらに視線で追い続けていた男性。 憬れ、恋情…。そんな言葉では上手く表現出来ないほどに、一途過ぎる想いを向けてきた相手だ。 ここまでひとを好きになったことは今までなかった。 恋の曲をヴァイオリンで奏でる時、いつも思い浮かべるのは吉羅のことばかりだった。 香穂子は、このような状況で甘い緊張を抱くのは不謹慎だとは思ってはいたが、それでも抱かずにはいられなかった。 「もうすぐうちに着く。セキュリティはかなり厳重だし、防音もされている。君は安心して生活をすれば良い。ただし、うちの外から出ないように。うちにいれば安心だが、同じミッドタウンでも、商業地域は安全を保障出来ないからね。往復は学院とミッドタウンのみだ。息が詰まるかもしれないが、それはしょうがない。申し訳ないがね」 「…はい…」 身の安全を確保するために、それは致し方がないことだ。 リサイタルを無事に開くためにも、ここは踏ん張らなければならない。 「…何か欲しいものがあれば言いなさい。それを私が買いに行こう」 「はい、有り難うございます」 必要なものは念の為に荷物には詰めているから、恐らくは大丈夫だろう。 香穂子は、吉羅の心遣いに感謝をしながら、しっかりと頷いた。 車は緩やかにミッドタウンに入っていく。 いつもは主にウィンドショッピングに行く商業施設を横目に、車は居住地域に入っていった。 繁華街にある雑多な雰囲気の街に、突然、摩天楼が現われる。 そこは香穂子が住む世界からすると、別世界のよいな気がした。 車が駐車場に止まると、吉羅は助手席のドアを開けてくれる。 香穂子が車からもたもたと降りている間、吉羅は、直ぐに車から降りると、トランクから手早く荷物を出してくれた。 「有り難うございます」 「では、行こうか」 「はい」 吉羅は、ごくあたり前とばかりに、香穂子の荷物を持ってくれる。 「わ、私が持ちますから!」 「君は気にしなくても良いんだ。ヴァイオリンが大事だろう。しっかりとそれを持っていたまえ」 「あ、有り難うございます」 吉羅が何もかもしてくれるから、香穂子はかえって恐縮しながらエレベーターに乗り込んだ。 案内された吉羅の住家は、生活感がなくてまるで雑誌に載っているかのようなスペースだった。 落ち着いた男性らしいトーンでまとめられている。 「…荷物は…使っていない部屋があるからそこに置いてくれれば良い。後、そこにソファベッドと寝具を運ぶから、使ってくれたら良い」 「有り難うございます」 吉羅は、早速、空いている一室に荷物を運んでくれる。その後、書斎から立派なソファベッドを運びこんでくれた。 「て、手伝いますっ!」 「頼んだ」 ふたりで部屋にベッドを運び込み、寝具をそこに置いて整える。 直ぐにゆったりと暮らせる空間に整えることが出来た。 「自由に使うと良い」 「有り難うございます。本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません…。お世話になります。宜しくお願い致します」 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅はクールなまなざしを向けて来るだけだ。 「気にしなくて良い。今は、リサイタルが成功することだけを考えたまえ」 「はい、有り難うございます」 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅は興味などないとばかりに、スッと目を細めた。 高校生の頃から、あくまで香穂子を学院の広告塔としてしか扱ってはくれなかった。 今回も、恐らくは、リサイタルをする大切な学生だから、こうして保護をしているのに過ぎないのだろう。 そう思うと、かなり痛かった。 「ではゆっくりしたまえ。夕食は、私が作ろう。出来たら呼ぶ」 「あ、あの、私っ、手伝いますっ!」 吉羅にそこまでさせてはならないと思いながら、香穂子は手伝おうとする。 だが、吉羅に制されてしまった。 「今日は色々とショックで大変だろう。ゆっくり休みなさい。また手伝って貰うこともあるだろうからね」 「…はい」 本当に何から何までしてもらい、香穂子は恐縮するばかりだ。 本当に吉羅には頭が上がらない。 「甘えてばかりで申し訳ありません。手伝える時には、きちんと手伝います」 「ああ。その時は頼んだよ」 「有り難うございます」 吉羅が部屋を出て行ってしまった後で、香穂子は深々と溜め息を吐く。 これからどうなってしまうのだろうか。 吉羅をこうして巻込んでしまったことが、香穂子には何よりも辛いことだった。 自分に何かがあるよりも、吉羅に何かあったほうが何倍も辛いのだ。 吉羅は守ってくれると言ってくれた。 ならば自分が吉羅を守るのだと、香穂子は強く思う。 吉羅を守りたい。 そのためにも、もっと強くならなければならないと香穂子は思った。 ソファベッドに腰を掛けて、溜め息を深々と吐く。 どうか。 先ずは吉羅を守って下さい。 そう祈らずにいられなかった。 吉羅が使っている場所。 ここならば守られている。 香穂子は心からの安堵を感じながら、ふと眠気が襲ってくるのを感じる。 そのままゆっくりと横になりながら、香穂子は眠りに着いてしまった。 吉羅は、香穂子の為に、夕食作りに励む。 香穂子が食べたい物は分からないが、温かい物を作ってやりたかった。 健康にかなり気を遣っているせいか、自炊も多い。 その為に、料理を作るのは隠れた趣味の一つでもあった。 香穂子を守ってやりたい。 どんなことがあっても守り抜く自信はある。 吉羅は、香穂子の為ならば、どのようなことも苦ではないとすら思う。 とにかく。今は精神的に元気になって欲しかった。 食事の支度を終えて、吉羅は香穂子が使っている部屋に向かう。 「日野君、食事が出来た」 ノックをして声をかけたが、返事がない。 「日野君…?」 吉羅は心配でそっとドアを開いてみる。すると、ベッドに横たわる香穂子の姿が見えた。 無防備に眠る姿に、吉羅は安堵する。 様々なことがあり過ぎて疲れてしまったのだろう。 吉羅は可哀相に思うのと同時に、何処かホッとした気分になる。 香穂子が眠るベッドに近付くと、思わず笑みが零れた。 こんなにも愛しいと感じる女は他にいない。 それだけは強く言える。 香穂子の寝顔にそっと触れたくなるのを何とか堪えて、吉羅はそっと声を掛けた。 「…日野君、食事が出来たが…、どうするかね」 そっと声を掛けると、香穂子の瞼が僅かに開かれる。 「…ん、お母さん…」 寝ぼけているのか、香穂子は無防備になっている。 「あ…」 視界に吉羅の姿を認めて、香穂子は慌てて飛び起きた。 「り、理事長っ。ご、ごめんなさいっ!」 「夕食が出来たがどうするかね?」 「も、もちろん、頂きます…っ!」 香穂子がシャキリと背筋を伸ばして起きる姿が可愛くて、吉羅は表情になるべく出ないようにして微笑んだ。 「直ぐにダイニングに来たまえ」 「有り難うございます」 吉羅が部屋から出ると、香穂子はその後を着いていく。 拙いところを見られてしまったかもしれない。 こんな状況で居眠りをしてしまうなんて、恐らく吉羅は呆れているだろうと思う。 香穂子は吉羅の広い背中を見つめながら、つい溜め息が出てしまった。 嫌われたらなんて考えてしまう自分が、ひどく不謹慎だと思った。 |