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吉羅が作ってくれた食事をしながら、香穂子は何処かやるせない気分になった。 吉羅が作ってくれた食事は申し分ないほどに美味しくて、香穂子の食欲を満たしてくれる。 それはそれで嬉しいのだが、吉羅に食事までも作って貰うのは、何だか申し訳ないような気がした。 食事をしている間は、殆ど話さなかった。 以前ならば、食事をしながら様々なことを話していたというのに、何だか意識をし過ぎてしまい話す事が出来ない。 恐らくは、吉羅のプライベートな場所で、一緒に暮らす事になったからだろう。 香穂子は吉羅を意識し過ぎて、何だかぎこちなくなってしまう自分に苦笑してしまう。 「…日野君、明日以降の君のスケジュールを教えて貰いたい。なるべく共に行動をするつもりだから」 「それじゃあ、理事長のお仕事がっ!」 「勿論、私もしっかりと仕事をするつもりだ。お互いにスケジュールを合わせあうようにすれば良いんだ」 「…有り難うございます」 吉羅は本当に親身になってくれている。それはとても嬉しくてしょうがない。 だが、何処か淡々としているのが切ない。 こうして気遣って貰うだけで充分に幸せな筈なのに、つい温かさが欲しいと、わがままな感情を持ってしまう。 「…後で教えてくれたまえ」 「はい。色々と有り難うございます」 吉羅とずっと一緒にいるなんて、これほど緊張して嬉しいことはないと思う。 だが、ここまで色々とさせてしまって良いのかという気持ちが強くある。 香穂子はすっかり恐縮してしまい、吉羅を見た。 「…本当に有り難うございます。私…、理事長にここまでして貰っているのに…、何もお返し出来ないです」 「返すだとか、そんなことは考えなくて良いんだ。君はヴァイオリニストとしてしっかりと前を見て頑張ってくれたら良い。…まあ、出世払いというやつかね。後は、ヴァイオリンを私だけに聴かせてくれる時間をくれたら、私はそれで構わないよ」 「…吉羅理事長…」 吉羅の申し出に、香穂子は何度も頷く。 本当に何も返すことが出来ないのが辛い。 吉羅にはいつも貰ってばかりだ。 「…私なりにベストを尽くして、ヴァイオリンの技術を向上させていきます。理事長のご期待に応えられるように」 「ああ。それで構わない」 吉羅は静かに言うと、僅かだが微笑んでくれた。 「君は君のやるべきことをすれば良い。私に気兼ねをする必要はないんだからね。君を保護するのは、私にとってやるべきことだからやるに過ぎない」 やるべきこと。 その言葉の響きが痛くて、香穂子は上手く笑えない。 「はい。有り難うございます。私は私のやるべきことをします」 吉羅は頷く。 恐らくは、香穂子の気持ちなど解ってくれてはいないだろう。 そう思うと、この一方通行な想いが、痛くて仕方がなかった。 食事の後、後片付けをしようとしたが、吉羅に制される。 立派な食器洗い乾燥機があるせいか、そこに入れるように言われた。 「ヴァイオリニストには、指先は大切だからね。余り家事はしないほうが良い」 「そんなことを言う男性なんて理事長が初めてですよ。食器洗いぐらいはいつもしているので、慣れているから大丈夫ですよ」 「だが、大事を取らなければならないよ。ヴァイオリンを弾くのは繊細な作業だからね」 「はい」 「早速だが、君のヴァイオリンを聞きたい。聴かせてくれるかね」 「はい」 吉羅の申し出に、香穂子は笑顔で応える。 吉羅だけの為の演奏会だなんて、少し素敵だと思った。 香穂子は、部屋に置いてあるヴァイオリンを取りに行くと、笑顔で準備をする。 「ではヴァイオリンを弾きますね」 「頼んだよ」 香穂子はヴァイオリンを構えると、ゆったりとしたリズムで“だったん人の踊り”を奏でる。 どうか吉羅が喜んでくれますように。 それだけを願って、香穂子はヴァイオリンを奏でた。 ヴァイオリンに集中して、豊かな気持ちで奏でる。 恐らくは吉羅が聴いてくれるという事実が大きいのではないかと思った。 香穂子がヴァイオリンを奏で終えて深々と頭を下げると、吉羅は拍手をくれた。 顔を上げると僅かに口角が上がっているのが見える。 「有り難う。良い心のデザートになったよ」 吉羅の言葉に、香穂子は嬉しさの余りに笑顔を見せた。 「有り難う。これからは君の自由の時間だ。風呂に入ってゆっくりしたまえ。私は少しだけ仕事をするから」 「あ、あのっ、私のせいでお仕事が滞っているのではないですか?」 吉羅の仕事の邪魔をしているかと思うと気が気ではなくて、香穂子は表情を曇らせた。 「…君は心配しなくても良いんだ…」 吉羅は香穂子の髪を緩やかに撫でてくる。その甘くて切ないリズムに、香穂子はとろとろに溶けてしまいそうになる。 鼓動が激しく鳴り響いて、どうして良いかが解らない。 香穂子が喉がからからになるほどに緊張していると、吉羅はスッと目を細めて見つめてきた。 そのまなざしが複雑な色をプリズムのようにたたえている。 香穂子がドキリとしながら見つめていると、吉羅は香穂子から静かに離れ、そのまま書斎に行ってしまった。 吉羅の背中を見つめながら、どうしてこんなにも苦しいのだろうかと思った。 吉羅は書斎でひとりになり、ホッと息を吐く。 香穂子に触れてしまった瞬間、アドレナリンが一気に躰を駆け抜けて行くのを感じていた。 どの女よりも激しく反応する。 息が吐けないほどに。 誰よりも大切な存在なのだということを、吉羅は改めて思い知らされた。 だからこそ、香穂子を守ってやらなければならない。 香穂子が無事に初のリサイタルを開くことが出来るように。 吉羅は何が何でも守り抜くつもりだ。 だが、一緒にいて、自分の気持ちを抑える自信が、早くもなくなってしまっている。 「…参ったな…」 吉羅は心から呟くと、天井を仰ぎ見た。 香穂子は緊張しながら入浴をした後で、部屋に籠る。 壁を隔ててすぐ近くに吉羅がいるなんて、いやがおうでも意識をしてしまう。 こんなにも意識をしたことは、いまだかつてなかった。 命を狙われているのに、こんなにも誰かを意識して良いのだろうかと、香穂子は思ってしまう。 不謹慎ではないかと。 命を狙われていることなど忘れてしまいそうになるぐらいに、香穂子は吉羅のことで頭がいっぱいだった。 そんなことに気を取られてはいけないことぐらいは、充分に解っている。 なのに気を取られてしまうのは、吉羅の存在が誰よりも大きいのだろうと香穂子は思った。 眠れない。 ベッドに着いて寝返りを打っても、全く眠れなかった。 じっとしていることが出来なくて、香穂子はとうとう部屋から出てしまった。 キッチンに出ると、そこに吉羅がいた。 「…理事長…」 「眠れないのかね?」 「少しだけ…。やっぱり、枕が変わると落ち着かないのかもしれないですね…」 香穂子が苦笑いをすると、吉羅はフッと微笑む。 「温かなミルクでも飲むと良い」 吉羅はカップを出すと手早くミルクを入れ、電子レンジで温めてくれた。 「…有り難うございます…」 吉羅は直ぐに香穂子にそれを差し出してくれる。 優しい気遣いに感謝しながらも、恐らくは香穂子を子どもぐらいにしか思ってはいないのだろう。 「有り難うございます。これを飲んだら寝ます」 「ああ。ゆっくりしなさい」 吉羅は、ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出すと、クールに背中を向けて行ってしまう。 背中が頼り甲斐があると同時に、何処か寂しそうに思えた。 |