*あなたに護られて*


 寝不足を覚悟していたのに、意外にぐっすりと眠ってしまい、すんなりと目覚めることが出来た。
 香穂子は寝ぼけて家だと思い、パジャマのままで部屋を出ようとしてハッとする。
 ここは吉羅の家で、安全の為に間借りをさせて貰っているだけなのだ。
 流石にこんな寝乱れたスタイルで部屋から出る訳には行かず、先ずは服に着替えて髪を梳した。
 パウダールームで身仕度を整えてキッチンに向かうと、既に吉羅が朝食の準備を終えようとしていた。
「…おはようございます…」
「おはよう、日野君。朝食は間も無く出来るから、席に着いて待っていてくれたまえ」
「はい。有り難うございます」
 吉羅に朝食の準備をさせてしまうなんて、何だか恐縮してしまう。
 香穂子は居心地の悪さと申し訳なさを感じながら、席に着くしかなかった。
「茶粥とちょっとしたおかずだ。朝は和風と決めているからね。申し訳ないが」
「私も和食は大好きですから、嬉しいです」
「なら良いがね」
 吉羅は手早く香穂子の前に朝食を出してくれると、自分も席に着いた。
「今日、私の仕事は6時には終わるから、待っていてくれたまえ。君を連れて行きたい場所があるから、一緒に行こう」
「有り難うございます」
 吉羅が連れて行きたいと言ってくれた場所は、いったい何処なのだろうか。
 香穂子は嬉しさの余りに鼓動が激しくなるのを感じた。
 大好きな男性に連れていって貰える場所なんて、そこが何処であろうともロマンティックに感じる。
 香穂子は楽しみでしょうがなくて、思わず笑顔になった。
「楽しみにしています…。本当に…」
 香穂子が夢見るようなまなざしを吉羅に向けても、あくまでクールな振る舞いしかしてはくれなかった。
 やはり吉羅にとっての香穂子は、その程度の存在なのだと思わずにはいられない。
「今日は学院での授業と練習だね。私も今日から大学で仕事をするとしよう。後、昼食の時には、私がいるところまで来るように。いいね?」
「解りました」
 香穂子がしっかりと返事をすると、吉羅はそれに応えるかのように頷いてくれた。

 朝食が終わり、ふたりで一緒に大学へと向かう。
 とても幸せな結婚生活のようだ。
 だがそれは、あくまで香穂子を守るためのものだ。そこに愛情などはない。
 それが香穂子にとってはかなり痛かった。
 吉羅の車に乗り、ふたりで共に大学に向かうなんて、信じられないことだ。
 少しだけ想像をしたことはあるが、それはくすぐったい妄想に過ぎないと香穂子はずっと思っていた。
 だがそうではない。
 こうして現実に起こっているのだから。
 香穂子にとっては、何よりも素敵なことのように思えてならなかった。
 横浜に入ると、吉羅は厳しい顔をしながら、バックミラーを見る。
「…日野君…、しっかり掴まっていてくれたまえ。不審な車が先ほどから後ろにぴったりと着いてきている」
「…え!?」
 香穂子は振り返るのも怖くて、前のミラーで確認することしか出来なかった。
「…何処にでもあるような車にしか見えませんが…」
「何処にでもあるような車だから怖いんだよ。日野君、何とかまいてみるが…、少し運転が荒くなる。覚悟をしておいてくれたまえ」
「…はい」
 吉羅はわざと狭い路地に入り、巧みな運転技術を香穂子に見せつける。
 先ほどの車がぴったりと着いてくるのがみえて、香穂子は不安になってしまう。
 吉羅の言う通りに、やはり不審車なのだろうか。
 吉羅はハンドルをゆっくりと切りながら様子を見ている。
 不安でたまらない。
 本当に香穂子の命を狙った者が、すぐ後ろにいるのではないかと思ってしまう。
 二台の車が間隔を上手く空けて、狭い路地を走り抜けていく。
 学院までの道程は真直ぐ一本道で本当に近いのだが、わざと遠回りで分かりにくい場所をぐるぐると回っていた。
「…しつこいな…。普通はこれぐらいならば引く筈なんだがね」
 吉羅は埒が明かないとばかりに、厳しい表情を浮かべている。
 相手は相当なのだろう。
 そう思い、香穂子は恐ろしさがせり上がってくるのを感じた。
 背中には嫌な汗が流れ落ちて、香穂子の不安を更にかき立てて行く。
 それが痛くて切ない。
「吉羅さん… 私…」
「心配しなくても良い。大丈夫だ」
 かなり不安げでいたのを直ぐに汲み取ってくれたのが、嬉しかった。
「日野君…、しっかりと掴まっていたまえ。運転は…少しばかり手荒になるが許してくれ」
「はい」
 香穂子が答えた後、吉羅は巧みにハンドルを素早く切ると、狭い路地に向かう。
 とてもではないが、車を入れることが出来ないスペースに、吉羅は車輪を僅かに浮かべて車をスムーズに 走行させる。
 このようなことをするひとがいるなんて、香穂子には信じられなかった。
 吉羅が路地を上手く抜けると、もう不審車は諦めたのか着いては来なかった。
 香穂子はホッとしながらも、吉羅を見上げる。
 こうしてさりげなく守ってくれたのが、香穂はには嬉しくてしょうがない。
 吉羅の横顔は、相変わらずクールだった。
「有り難うございます」
「…これで今日は無事に過ごすことが出来るだろう」
「有り難うございます。本当に感謝しています」
 香穂子は礼を言った後、ホッとしたのか力が抜けて、涙がポロポロとこぼれ落ちて来るのを感じた。
「大丈夫かね!?」
 吉羅は驚いたように声を掛けてくる。
 香穂子は何とか微笑むと、吉羅を見上げた。
「…大丈夫…です…」
 そこまで言ったところで、香穂子は鼻を啜る。
 本当にどうして良いかが分からなくて、笑おうとしても上手く笑うことが出来なかった。
「…大丈夫だ…」
 吉羅の優しくて甘い声が聞こえてくる。
 本当に甘くて柔らかな声に、香穂子はまた涙をこぼしてしまった。
 すると吉羅がそっと抱き寄せてくれる。
 その優しい抱擁に、香穂子は涙が更にこぼれ落ちるのを感じた。
「大丈夫だから」
 吉羅に背中を撫でられながら宥められると、本当にホッとする。
 香穂子は大きく深呼吸を何度もした後、ようやく落ち着きを取り戻すことが出来た。
「大丈夫かね…?」
「大丈夫です…」
 香穂子は吉羅に顔を上げると、何とか笑顔になることが出来た。
「…理事長、有り難うございます。もう大丈夫ですから…」
「…そのようには見えないがね…」
 吉羅は神経質そうにスッと目を細めると、香穂子をじっと見つめた。
「…授業は受けられるかね? 受けられないようなら、私のところにいても構わない」
「大丈夫です。色々とやらなければならないことが沢山ありますから。頑張ってきます」
 香穂子は何とか笑みを浮かべると、深々と頭を下げて、吉羅から辞した。
 吉羅がじっと見守ってくれているのが解る。
 そのまなざしがあれば、安心して頑張れるような気がした。

 香穂子を見送りながら、吉羅は深々と溜め息を吐く。
 まさか、車で執拗なまでに追いかけられるとは思ってもみなかった。
 このままでは香穂子の命は本当に危ないかもしれない。
 最初は、インターネットでのただの脅しだと思っていたが、そうではないことを、ここに来て初めて知った。
 今日のことを警察に報告をし、きちんとした対処をして貰わなければならない。
 吉羅は、何よりも香穂子の安全を確保すると誓う。
 どのようなことがあったとしても、そばにいて香穂子を守り抜くつもりだ。
 吉羅は強く誓いながら、いつまでも香穂子を見つめていた。



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