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授業を受けに行ったものの、香穂子はいつもよりは集中することが出来なかった。 誰かが恐ろしいまなざしで見ているかもしれない。 そう考えると、不安でしょうがなかった。 音楽に集中しなければならないと、あれほどまでに自分に言い聞かせても、上手くいくはずがなかった。 いつもよりも満足が出来ないままで、香穂子は授業を終えた。 授業の後、香穂子は無意識で理事長室に足を向けてしまう。 一番守ってくれるような気がするから。 吉羅に守られていると思うだけで、いつも以上の力を発揮することが出来た。 香穂子は理事長室のドアをそっとノックする。 「誰かね?」 「日野です。吉羅理事長」 「入りたまえ」 吉羅の言葉に導かれるように、香穂子は理事長室に入る。 すると吉羅は仕事をしていた。 「もうすぐ昼食の時間だね。ここで一緒に食べるというのは?」 「是非、ご一緒させて下さい」 香穂子が笑顔で頷くと、吉羅も笑みを零してくれた。 「昼食を手配しよう。ここでゆっくりとしていくと良い」 「有り難うございます」 香穂子が嬉しさの余りに、更に笑顔になる。 「いつも私と顔を合わせているから、君は私と食事をすることに飽きてしまったのかと思ったよ」 「そんなことはないですよ」 それどころか、香穂子がどれほど吉羅と過ごすことを大切にしているかを知らないだろう。 「軽い和食で構わないかね」 「はい、大丈夫です。有り難うございます」 吉羅が手配をかけてくれるのを嬉しく思いながら、香穂子は笑顔を向けた。 吉羅が注文をしてくれた昼食を、ふたりで向かい合わせになって食べる。 ふたりでこうして食事をするだけで、何よりも幸せだった。 吉羅とふたりでいると、気持ちが軽くなるのを感じてしまう。 狙われていることなんて、ついうっかりと忘れてしまいそうになった。 食事が終わると、吉羅が香穂子を見つめてくる。 「日野君、どうしても授業が出るのが嫌ならば、ここでレッスンをしても構わないが、どうするかね!?」 「それだと吉羅さんの仕事の邪魔にはならないですが?」 「ヴァイオリンの音色ならば邪魔にはならないから、大丈夫だ。ここで弾いて貰ってもね」 「有り難うございます」 吉羅の部屋でヴァイオリンを弾くとことが出来るのは、嬉しかった。 香穂子は吉羅の部屋の端で、ゆっくりとヴァイオリン演奏の準備を始める。 「日野君、君は遠慮しがちだが、もっと堂々としていて良いんだ」 「有り難うございます」 香穂子は頭をさげた後、ヴァイオリンをかまえる。 「ここだと本当に安心してヴァイオリンが弾けます。有り難うございます」 香穂子は笑みを浮かべた後、ヴァイオリンに集中していく。 吉羅がそばにいるだけで安心すると同時に、かなりドキドキしてしまう。 ヴァイオリンの音色にも華やぎが重なった。 楽譜をチェックしながら一通り演奏を終えた後、香穂子は吉羅を見た。 自分のペースで仕事をしているようだ。 夕暮れの優しい光が吉羅の髪を撫でている。なんて美しい風景なのだろうか。 香穂子は思わず見惚れてしまっていた。 「日野君、練習は終わったのかね」 吉羅は落ち着いた声で呟くと、香穂子に視線を合わせてくる。そのまなざしがとても綺麗だ。 香穂子はドキリとしながら、吉羅を見上げた。 「…はい。今日は」 「私ももうすぐ仕事が終わる。今夜は外せないパーティがあってね。申し訳ないが、一緒に来てくれないかね?」 「私がパーティですか…? あ、あの、お邪魔だったら、何とか自分で帰りますし…」 香穂子がしどろもどろに言うと、吉羅は睨み付けて来た。 「君は今朝のことを忘れたのかね? 君は確かに今朝、狙われてしまったんだ。君をひとりにする訳にはいかない」 吉羅はキッパリと言い放つと、香穂子の手をギュッと握り締めた。 「…分りました。だけど…、この姿でパーティは…」 少し子どもっぽいカジュアルなスタイルで、パーティなどに行く訳にはいかない。 「…トータルでパーティスタイルしてくれる店が銀座にあるから心配しなくて良い。似合うドレス、バッグ、ハイヒール、ヘアスタイル、メイク…。すべてをトータルでやってくれるパーティ用の専門店だ。レンタルだから気負う 必要もないしね。多くの女性が使っている。私も知り合いの女性に教えて貰ったんだよ」 「はい」 香穂子はほんの少しだけホッとする。 だが、レンタルで吉羅に釣り合うようなスタイルを作ることが出来るのだろうか。 大人で落ち着いた完璧過ぎるセレブリティな彼に。 「日野君、時間がない。パーティに向かうよ」 「はい」 吉羅は香穂子の手を放すと、先に理事長室から出る。 香穂子はその後ろを歩きながら、緊張で喉がからからになっていた。 車に乗り込み、先ずは銀座へと向かう。 吉羅とは殆ど一言も話すことなく、香穂子は緊張で躰を固くしていた。 今のところ今朝と同じように、襲われては来ない。 香穂子はそれに幾分かホッとしてしまう。 吉羅は車を駐車場に停めると、香穂子をエスコートして外に出た。 「ここで小一時間で綺麗にするように言ってある。綺麗にして貰って来なさい」 「はい」 吉羅に背中を押されて受付に行くと、直ぐに奥に案内された。 既にブラックのフォーマルワンピースが用意されており、それに先ずは着替えた。ハイヒールとタイツもコーディネートされているものに着替える。 それが終わると、髪のアレンジとメイクを同時にされる。 メイクはメイクが美しく映えるように、軽いエステのようなマッサージをしてくれた。 本当に短時間で仕上げる技に、香穂子は目を白黒させるばかりだ。 しかもきちんとそれなりに吉羅とバランスが取れるようにしてくれていた。 「はい出来上がりましたよ。本当にお綺麗ですよ」 「有り難うございます」 やはりプロは凄いのだと、香穂子は思わずにはいられなかった。 少しだけ吉羅に近付くことが出来ただろうか? そんなことを思いながら、香穂子は吉羅が待つロビーへと向かった。 どうか気に入って貰えますように。 プロの手によって魔法を掛けられたのだ。 それはまるでシンデレラが魔法使いのおばあさんに魔法で綺麗にして貰ったことと似ているような気がした。 ロビーに香穂子が現われた瞬間、吉羅は息を呑んだ。 こんなにも光り輝く宝石であることを、想像出来なかったからだ。 想像以上に香穂子は美しく、吉羅はこのまま誰の目にも曝したくはないとすら思った。 綺麗だとは思っていた。 だが、これほどの美しさだとは正直言って思わなかった。 本当に美しい。 吉羅はしばし香穂子の姿に見惚れていた。 魂の奥底から恋をしていると言っても、過言ではなかった。 だが、それを素直に香穂子に伝えることが出来ない。 大人の男として、彼女を守る者として決して言えない言葉でもあった。 「…悪くない…」 ひねくれた言葉で、素直に香穂子の美しさを称讃出来ない自分自身に舌打ちをしながら、吉羅は香穂子に手を差し延べる。 「行こうか」 いつもはエスコートをするのに緊張なんてしないのに、今夜は緊張してしまう。 だが香穂子には悟られてはならない。 「…はい…」 香穂子の手をしっかりと取った瞬間、吉羅はもう離したくはないと思った。 離せやしなかった。 |