*あなたに護られて*

16


 吉羅はステージと客席が見渡せる場所で香穂子を見守る。
 どうか香穂子を守ってくれと、祈るしかない。
 リサイタルが無事に済み、犯人が逮捕されることが今の一番の望みだ。
 それ以上もそれ以下もない。
 香穂子が傷つけられることなくリサイタルが無事に成功することが望みだ。
 吉羅は静かに見守っていた。
 警察や警備会社との連絡を密に取るために、トランシーバーを携帯し、耳にイヤフォンを着けているせいか、香穂子のヴァイオリンを聴くことが出来ないのが切ないが。
 客席は満員で殆どの観客が香穂子の演奏を楽しみに来てくれている。
 そのためにも中止にさせてはならない。
 不意にトランシーバーを通じて連絡がされる。
「犯人グループひとり確保! 残り三名!」
 吉羅の心臓が不安に踊った。

 香穂子は舞台袖で深呼吸をしながら、出番を待つ。
 大丈夫、きっと大丈夫だ。
 そう信じてステージ中央へと歩みを進める。
 愛するひとに、そして折角音を聴きにきてくれている人々に、サポートをしてくれている総ての人々にこの音を届けたいと思った。
 今日はピアノ演奏に加えて、後半は学院のオーケストラ部との共演もある。
 指揮は土浦が務めてくれるのだ。
 様々な人々の想いを受け止めながら、香穂子はヴァイオリンを奏で始めた。

 リサイタルが始まり、会場には香穂子のヴァイオリンの音色しか響かない。
 吉羅はヴァイオリンの音に癒されながらも、神経を尖らせる。
 後犯人グループは三人いるのだ。
 緊張を外すわけにはいかない。
 吉羅は香穂子を見守りながらも、鷲のようなまなざしを光らせていた。
 オーケストラ部との共演が始まる。
 ふと吉羅が客席の周りを見ると、不穏な動きをしている女を見掛けた。
 吉羅のいるところから近い。
 タイミングよくトランシーバーが発放される。
「主犯格の犯人発見! 客席にてピストル所持」
 吉羅は背中に冷たいものが流れるのを感じる。
 香穂子を守りたい。
 守らなければならない。
 吉羅は女に向かって歩みを進める。
 怖くはなかった。
 女は真直ぐステージだけを見つめ、吉羅の姿には気付かない。
 吉羅は近付いてハッとする。
 顔が露見した女は、吉羅が顔見知りのヴァイオリニストだった。
 同じコンクールに出た相手で、顔を合わせたら挨拶をする間柄だった。
 先日、香穂子と一緒に行ったパーティでも顔を合わせた相手だ。
 プロのヴァイオリニストの端くれでありながら、なかなか機会に恵まれず、リサイタルを開催したことがないと聞く。
 恐らくは香穂子にかなりの嫉妬を覚えたのだろう。
 本当に言われなき嫉妬だ。
 香穂子は何もしてはいないのだから。
 吉羅は女の背後に近付く。
 オーケストラと言えば、そろそろシンバルが準備を始める見せ場がやってくる。
 吉羅は女がこのタイミングを狙っていたのだつ直ぐに直感した。
 昔、このようなシーンを名作サスペンス映画で見たことがあった。
 それを思い出しながら、吉羅はシンバルのタイミングのほんの一瞬前、女に背後から飛び掛かり、銃を手から落とした。
 シンバルが高らかに鳴り響く。
 そのまま何事もないように演奏は続けられる。
 女は静かにしかし激しく抵抗をしたが、直ぐに警察に取り押さえられた。
 二階席であるがゆえに殆どが気付かずに演奏を聴き続けた。

 一瞬、物音がしたような気がした。
 香穂子は物音が直ぐに静まるのを感じ、そのまま演奏を続けた。
 大丈夫。
 きっと大丈夫。
 吉羅がそばにいて見守ってくれるから大丈夫だ。
 香穂子は演奏に集中することにした。 

 吉羅は、警察が女を連行するのを見届ける。
 仲間たちも無事に逮捕された。
 女が護送される前に、吉羅は声を掛ける。
「どうして…こんなことをしたのかね?」
「…悔しかったのよ…。あんな小娘が、私よりも先にみなとみらいホールでリサイタルを開いて…、あなたの 心を捕らえるなんて…! 本当に…悔しかったのよ…!!」
 女は唇をわななかせながら言うと、吉羅を睨み付ける。
 吉羅はその言葉を重々しく受け止めながら、苦い気分になった。
 女が護送されるのを見守った後、吉羅はゆっくりと講堂へと戻る。
 何だか気分は晴れなかった。

 アンコール演奏を始めようとした時、吉羅が講堂に入ってくるのが見えた。
 少し髪とスーツが乱れている。
 心配になりながら、香穂子はヴァイオリンを構える。
 恐らくは一件落着したのだろうと香穂子は思う。
 疲れて何処か切なそうな吉羅を見つめた後、その想いを癒すように、吉羅が大好きな曲を奏でる。
 “ジュ・トゥ・ヴ”
 香穂子にとっては想い出の曲だ。
 香穂子は、ただ吉羅に伝えるためにヴァイオリンを奏でた。

 香穂子の清らかで温かなヴァイオリンの音色に聞き入ると、不思議と疲れ果てた気分が癒される。
 それがとても心地好く感じる。
 吉羅は香穂子のヴァイオリンとその瞳の動きを見つめる。
 これほど幸せな音色はないのではないかと思った。

 アンコールを終えた瞬間、客席はスタンディングオベーションをする。
 本当に香穂子はそれが嬉しくて、勿体なくてしょうがなかった。
 無事にステージを務めあげて、香穂子はホッとした。
「凄く素晴らしかったよ!」
 天羽が抱き付いて祝福してくれる。それが本当に嬉しくてしょうがない。
 続いて、伴奏をしてくれた土浦や森、金澤が祝福してくれる。
 そして、オーケストラ部の可愛い後輩たちもだ。
 彼らのお陰で、より良いステージを作ることが出来たのだ。
 それにはとても感謝している。
 仲間たちに祝福して貰えるのはとても嬉しい。
 そして最も祝福して欲しいひとは何処にいるのだろうか。
 香穂子がきょろきょろと辺りを見回していると、吉羅が姿を現した。
 先程に比べたら、衣服と髪が少しばかり乱れている。
 それでも吉羅は素敵だ。
 香穂子が熱いまなざしを向けると、吉羅はゆっくりと近付いてきてくれた。
「素晴らしい演奏だったよ」
「有り難うございます」
 ふたりが見つめあっているのに考慮をしてか、いつの間にか誰もいなくなってしまった。
 ふたりきりになると、香穂子は吉羅の乱れた髪に手を伸ばす。
「何かあったのですか?」
「犯人が捕まったんだよ」
 吉羅は何処か淡々としながら呟く。
 香穂子はホッとはするものの、何処か苦々しい想いを抱いてしまう。
「…犯人は…」
「君と一緒にパーティに参加した時に逢った女だ。私がヴァイオリンをやっていた頃に、同じコンクールでよく顔を合わせていた顔見知りだ…。君が自分よりも駆け出しなのに、リサイタルを行なうことが許せなかったようだ」
「…そんな…」
 香穂子は言葉を繋げることが出来なくなる。
「…もう、終わったんだ…」
「…はい…」
 吉羅に抱き寄せられて、香穂子はその胸に顔を埋めた。
 逞しい胸に顔を埋めながら浅く呼吸をする。
「無事で良かったです」
「…有り難う」
 香穂とは吉羅の髪をかきあげる。
 吉羅は香穂子に甘い笑みを浮かべた。
「君が無事で良かった」
「私もあなたが無事で嬉しいです。今、お伝えしたいことはそれだけです。今度は私が守りますから」
「ああ」
 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅は顔を近付けてきた。
「愛している。今日からふたりで新しい一歩を踏み出そう」
「はい」
 吉羅は香穂子の唇を奪うと、生きていることを感じあいながら、抱き合う。
 これからの人生を共に歩くために。



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