*Endless Dream*


 彼女と出会った瞬間、私の時間は総天然色の美しい瞬間に変わった----


 初めて彼女のヴァイオリンを聴いたとき、なんて下手くそなのだろうと思った。

 初めて彼女を認識したのは、学内コンクールの最終セレクション。

 こんなレベルでコンクールに出るなんてどうかしている----いくら、あの忌々しい羽根虫、いや、アルジェント・リリの差し金とはいえ、酷過ぎると思った。

 アルジェントがなんと言おうが、彼女をコンクールに出すことが間違っている。
 そう思うほどにヘタクソだった。

 ----だが。

 ----だが、その音色から耳が離せない。

 温かくて、優しい、慈愛が溢れた音。

 テクニックがままならず、音も安定しないのに、惹かれてしまう。

 私のこころを掴んで離さない、不思議な音。

 彼女の奏でるヴァイオリンの音色を聴いていると、離れがたくなる。

 ずっと傍にいたいと思う音。

 私がそう思ったのは、かつてひとりだけ----

 若々しい瑞々しい彼女の姿に目をやる。

 一瞬、私の時間が止まった。

 艶やかな黒髪、そして慈愛に満ちた音と、誰にも真似できない崇高なテクニック、そして透明さを秘めたあの女性(ひと)----

 姉の美夜と目の前の少女が重なる。

 息を呑み、もう一度、少女を見る。

 どこが似ているということはない。

 髪の色は赤く、少女の雰囲気は素直な明るさと活発さを感じる。

 姉は艶やかな漆黒で、落ち着いた優美で、信念のひとだった。

 どうして似ていると思ったのだろうか?

 どうしてこんなに惹かれると思ったのだろうか?

 その理由が知りたくて堪らなかった----


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「香穂、あんた、今日も練習するの?」

 コンクールから学院を護る騒動ですっかり仲良くなった天羽が、呆れるように呟いた。

「うん。ヴァイオリン楽しくなっちゃって。出来る限りは続けようって思って。まあ、レッスンだって週2回なら見てくれるって、音楽科の先生も言ってくれているし、金澤先生も色々と気にかけてくれるし、月森君も見てくれるからね」

 日野香穂子にとって、今やヴァイオリンは欠かせないものになっていた。

 最初は、アルジェント・リリに勝手にコンクールメンバーにされ、嫌な思いも沢山した。

 ヴァイオリンに触ったことのない実力のない自分をどうしてコンクールに出すのか、意味は全く解らなかった。

 何度も傷つき、何度も泣いた。

 だが、それ以上に、かけがえのない仲間と出会い、音楽の素晴らしさに触れたことに、今は感謝している。

 忍ぶことも知らなかった自分が、耐えることを知り、本当の優しさや強さを学んだのも、コンクールや学院分割の問題があったからだ。

 成長の糧になったと、今は感謝している。

 それだけではない。かけがえがないと思うぐらいに、ヴァイオリンを、音楽を愛することが出来たのだから。

 そんなものに出逢えた自分は幸せだと、香穂子は思っていた。

 不意に、校内放送が響く。

「2年2組の日野さん、2年2組の日野さん、至急、吉羅理事の部屋へ行って下さい」

 放送部の明るい声とは裏腹に、香穂子は身体を竦ませた。

「うわっ、吉羅理事のお呼び出しだよっ!」

 天羽は瞳を爛々と輝かせながら、興味深げに香穂子を見ている。

「もう、憂鬱だなあ。また、どんなイヤミ言われるんだろう……」

 香穂子は大きな溜息を吐くと、肩をがっくり落とした。

 吉羅理事と言えば、学院の分割の発案者であり、冷徹かつ非情で厳しい男だ。だが、その陰には温かさがあることを、香穂子はぼんやりと解っている。

 まだおぼろげで、輪郭しかないが。

「どうせなら、ついて行ってあげるけれど♪」

 流石は報道部記者なだけあり、天羽は楽しそうに手揉みをしている。

「良いよ、菜美。理事から100万倍のイヤミがおとされそう……」

 香穂子は意気消沈すると、大きな溜息を吐いて、椅子から立ち上がった。

「行ってくる」

「うん。帰ってきたら、色々根ほり葉ほり訊かせてもらうからね〜」

 天羽の明るい声を尻目に、香穂子は、更に深く溜息をつきながら、教室を出た。

 理事室に行くのが気が進まない。

 吉羅に何を言われるか想像がつくのだ。

『君は、そんなに下手くそなのに、いつまでヴァイオリンを続ける気なのかね?』

 あの艶やかさと甘さに、冷たさが混じった魅力的なテノールで冷淡に言われるのが想像できて、余計に気が重くなった。

 ようやく理事室に辿り着き、香穂子は重苦しい気分で重厚なドアをノックした。

「吉羅理事、日野です」

「入りたまえ」

 吉羅の無機質な美声を聞きながら、香穂子はゆっくりと理事室に足を踏み入れた。

 するとそこには、凛とした女性がおり、香穂子を艶やかな眼差しで見つめた。

「こんにちは、あなたが日野香穂子さんね」

「は、はいっ!」

 大人の雰囲気がある凛とした女性に、香穂子は思わず背筋を糺して深々と頭を垂れた。

「日野香穂子と申します!」

「日野君、頭を上げたまえ。こちらは、大学の音楽学部指揮専攻の都築君だ。この春、学院の精鋭でオーケストラを編成し、音楽祭に出ることになった。都築君には、その指揮をして貰う」

「都築茉莉です。よろし、日野さん」

「よ、宜しくお願いします」

 指揮者を目指しているせいか、凛とした雰囲気を持っている。その雰囲気に憧れすら抱きながら、香穂子は手を差し出していた。

 憧れの大人の女性----そんな言葉が、都築にはよく似合うと思った。

「そこでだ、日野君。君にオーケストラのコンミスをやってもらいたいと思っている」

 吉羅はスッと香穂子の魂を射るように、冷たい眼差しを向けてくる。

 逆らえない----だが、そんな大それたことは出来ない。

 ヴァイオリンを齧り始めた香穂子にとって、コンミスがどれほどの大役かは解っている。

 そんなの出来るはずない。

 今まで以上に厳しいことになってしまう。

「----そんなこと、私には無理です! 吉羅理事!」

 香穂子は重圧で胸が切なく苦しいのを感じながら、吉羅に精いっぱい抵抗をした。

「君に選択の余地はない」

 吉羅は冷たく言い放つと、都築を見た。

「都築君、ご苦労だった。戻って良い」

「はい、理事」

 都築は深々と頭を下げると、理事室から出て行った。

「日野君、どうして”無理”だと思うのかね?」

 吉羅は相変わらずのポーカーフェイスで言うと、席から立ち上がる。

 整った顔をしているせいか、冷たい表情にも迫力があり、香穂子はたじろいでしまう。

「そ、それは……」

 香穂子は吉羅と目を合わせないように、俯き、後ずさった。

「ヴァイオリンに自信がない、か」

 痛いところを突かれて、香穂子はハッと息を呑み、思わず吉羅を見上げた。

「あ……っ!」

 身体のバランスを崩してしまい、そのまま香穂子は崩れ落ちそうになる。

 すると、吉羅の腕が素早く香穂子の身体に伸びる。

「おっと」

 吉羅の逞しい胸に抱きとめられて、香穂子は心臓が竦む思いがした。

「あ、有難うございます」

 香穂子は身体のバランスを整えると、気まずい気分で吉羅の身体から離れる。

「……私よりも、ヴァイオリンが上手いひとは学院にいっぱいいます! そのひとに、コンミスを任せられたほうが良いのではないでしょうか!?」

「自信がないのは、経験不足だ」

 吉羅はピシャリと言うと、香穂子を真っ直ぐ見つめた。

 吉羅の視線が怖くて、小動物になったような気分になる。

「では、これから、放課後1時間、ここに通いなさい。君のヴァイオリンは私が見る。私も、ヴァイオリンなら、経験がある。いいね」

「は、はい!」

 このひとからは逃げられない----

 香穂子は無意識に返事をするしかなかった。



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