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音楽科のヴァイオリン講師と、月森に練習を見てもらう日以外は、吉羅の特訓を受けることになった。 厳しく卑怯されるのが怖くて、香穂子は憂鬱な気分になる。 ヴァイオリンを片手、重い足取りで、理事室へと向かう。 理事室の扉をノックするにも、勇気がいる。香穂子は深呼吸をすると、ドアをノックした。 「吉羅理事、日野です」 「入りたまえ」 理事室に入る前に、香穂子はもう一度深呼吸をすると、中に入った。 「失礼します」 香穂子が理事長室に入ると、吉羅はノートパソコンを閉じ、怜悧な眼差しを向けてきた。 何もかも見据えているような、冷たい眼差し。 その眼差しに晒されるだけで、香穂子は緊張を覚えた。 「さて。今日から君には、基礎を徹底的に行って貰わなければならないね」 吉羅は席から立ち上がると、スッと香穂子の前に立った。 「荷物を置いて、ヴァイオリンを構えなさい」 「はい」 ヴァイオリンを構えるなり、吉羅はいきなり弓を持つ香穂子の手を取った。 「……!!!」 吉羅に触れられて、香穂子は心臓が跳ね上がってしまうほどに驚いた。衝撃、ではなく、甘い雷が落ちたような感覚だった。 吉羅の手は大きいが、指先はとても繊細で美しい。 触れられるだけで息が出来なくなる。 「弦を弓に置くところからなっていない」 「指で弓をつまみ上げてみなさい。そのまま、弦に付ける」 吉羅は、香穂子の指を手に取り、弦を柔らかく持たせ、そのまま弦に付ける。 「これをするとしないでは、音の出方が変わる。弓を引く前に、正しい準備をしなければ、当然音は上手く出ない。これはヴァイオリンを弾く準備としては欠かせないもの。基本中の基本だ。この指がクッションを作り、弓を引く力を優しく吸収するから、音に深みが出る。これで、軽く、音階を弾いてみなさい」 「はい」 ヴァイオリンを弾く前に弓の持ち方なんて考えたこともなかった。 香穂子は、いかに基本を疎かにしていたを痛感しながら、ゆっくりと音階を奏でる。 すると、いままでよりも安定した音が出た。 吉羅にアドバイスでこんなに出る音が違うなんて思っても見ず、香穂子は驚いて目を見開きながら、吉羅を見た。 「応用的なことは、月森君や音楽科の講師が見てくれるだろう。私は、君の基本的な部分を見る。基本は疎かにしては、君は伸びない。コンミスの大役を果たすために、基本を徹底的に身体に覚え込ませることも大事だ。地道だが、これが一番上達する」 「はい」 吉羅はほんとうによく見て、よく聴いていることが解る。 本当は、将来を嘱望されたヴァイオリニストだったのではないか----そんなことすら思ってしまう。 「ボウイングの基本を行う。私のレッスンでは曲は引かない。フレーズや音階で調整をする。では、アップボウから(上げ弓)」 基本中の基本を、香穂子は学んだことがないせいか、吉羅のレッスンは、大切なことを学ぶことが出来るのではないかと、気持ちが引き締まる。 このレッスンを受けるまでは、とても恐ろしかった。 だが、今は、このレッスンを何としてでもついて行こうと思う。 「音が甘い。弓を同じ力で引けていない。もう一度」 「はい」 香穂子はヴァイオリンに集中する。 「そうじゃない。力が入りすぎている。指が力を吸収していない。さっき教えただろう」 「はい」 ヴァイオリンのフレーズだけを何度も、何度も弾かされる。 腕が痛くなる。 「腕が綺麗に伸びていない」 吉羅は香穂子の背後に回ると、その腕を取った。 鍛えられた胸が背中に密着し、大人の男らしいムスクの香りが香穂子の鼻孔をくすぐり、苦しくなる。 吉羅は何とも思っていないことは解っている。 だが、意識せずにはいられない。 「おかしな持ち方をすると、手の不調にの原因になる。気をつけたまえ」 「はい」 基本を徹底的に行う----これがヴァイオリンにとっては重要であることを、香穂子は改めて知る。 吉羅が師となってレッスンを行う時間は、厳しいが濃密で、香穂子を確実に成長させてくれるものだと、素直に思えた。 吉羅との放課後のレッスンは、『厳しい』以外の言葉では表せなかった。 香穂子は、自分がまだまだ未熟であることを心から思い知らされた。 今日は月森に1時間ヴァイオリンを見てもらう。 香穂子が集中をして課題曲を弾き終わると、月森は顔色を変えた。 「日野、おまえのテクニックは確実についている。この短期間で、どうやって身に付けた」 「吉羅理事に基本を特訓されているんです。厳しいですね、吉羅理事」 香穂子が話すと、月森は眉根を寄せる。 「吉羅理事が……」 月森はそれだけを言うと、考え込むように目を伏せた。 「月森君?」 「ああ、日野、続けてくれ。ここは、もう少し早く弓を動かした方が良い」 「はい」 香穂子は素直に月森に従って、ヴァイオリンを奏でる。 吉羅は曲を弾かせてはくれないが、月森は弾かせてくれる。のびのびとした解放した気分でレッスンが受けられる。 だが、吉羅のレッスンは必要不可欠なものであることは、香穂子は十二分に理解していた。 あんなに短期間で、あれだけの基本的なテクニックを正確に身に付けさせられるのは、尋常ではない。 月森は、吉羅のレッスンぶりが気になり、金澤に訊いてみることにした。 「金澤先生、今、吉羅理事が日野にヴァイオリンを教えているのをご存意ですか?」 一瞬、金澤は驚きを浮かべた後、フッと感慨深げに寂しげな笑みを浮かべた。 「!? あいつがそんなことをするなんてな……」 「日野は確かに素直で教えやすい。だが、あんな短期間で、あんなにも正確に技術を伝えるなんて、並大抵のことじゃないです」 「それだけ、日野が成長していたということか」 「はい」 「だが、それだけ、日野が頑張ったということでもあるだろうな。だけど、あいつがな……」 金澤は一瞬目を閉じた後、いつもの飄々とした表情に変わる。 「ま、日野をコンミスに指名した以上、あいつも責任感じているんだろうな」 「しかし、理事が、あそこまできちんと見る目があるなんて」 「忘れるなよ、月森。吉羅は、あの吉羅一族の一員だということをな」 金澤はそれだけを言うと立ち去る。 月森をその飄々とした背中を見送ることしか出来なかった。 |