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月森だけではなく、音楽科の講師にまで、技術面で良くなってきていると褒められた。 香穂子は素直に嬉しかった。 これも吉羅が基礎を徹底的に教えてくれるからだ。 厳しい特訓だが、香穂子は、吉羅に感謝しながら、一生懸命受けている。 ここまでして貰い、理事には感謝しかなかった。 吉羅の特訓についていけば、もっと、もっと、技術的に上手くなるかもしれない---- そんなことすら思える。 吉羅に指摘されたところを直すために、香穂子は、早朝登校を始めた。 早朝の森の広場の空気は澄んでいて、気持ちよくヴァイオリンの練習が出来る。 誰にも気兼ねしなくても良いのが嬉しい。 何度か練習をし、スムーズにポジションを取ることが出来、香穂子はようやく笑顔になった。 ふと、優しい気配を感じ振り返ると、吉羅が冷たい表情をして立っていた。 「吉羅理事、おはようございます」 「おはよう。こんな朝も早くから、ヴァイオリンの練習かね?」 「理事に指摘されたところを練習していました。だいたいマスターできたみたいです」 「ああ。今の音を聞けば、改善されているのが解る」 吉羅は相変わらず冷たさしか感じられない声で言うと、香穂子を厳しい眼で見つめてくる。 「こんな朝早くから練習とは、きちんと眠っているのかね?」 「いつもよりは睡眠時間は少ないかもしれないですが、今は、時間が惜しいです。努力をするしかないと思っています。私は、”遅れてきた”から……」 香穂子は思わず唇を噛み締める。 遅れてきた----それは強く感じる。 音楽科の生徒や、香穂子のアンサンブル仲間や、音楽仲間は、誰もが幼い頃から音楽に触れている。だが、香穂子は、ヴァイオリンを始めたのは、高校2年生----しかも、アルジェント・リリに貰った、魔法のヴァイオリンが初めての経験なのだ。 焦ってもしょうがないのは解るが、やはり焦らずにはいられない。 「努力をするのは大いに結構。自分の目標を叶えるのは、夢をかなえるには、努力しかない。これまでの努力でしか、自分を支えてはくれないからね」 吉羅が言うと強い説得力があり、香穂子は思わず拳を作る。 「私は努力がまだまだ足りません。せめて、早朝練習するぐらいしか……」 「だが、それで身体を壊しては、本末転倒だ。心と身体の健康状態をきちんと把握し、管理することも、また努力だ。それが出来てから、技術面を磨くんだ」 「体調なら大丈夫です」 夢中になるものがあるせいか、毎日充実しているせいか、むしろ元気いっぱいだと感じるほどだ。 「君はすでにアルジェントの罠にはまっているんじゃないかね?」 吉羅は切れるような冷たい眼差しで、香穂子を真っ直ぐ射貫いた。こちらからは避けることは出来ない。 「----熱中していると、どんな苦しみも吹き飛ぶ……。だからか、躰が悲鳴を上げていても気づかないんだよ。気づいた頃には、手遅れだ」 吉羅は一瞬目を伏せる。まるで苦い気持ちを思い起こすかのように。 「私なら、大丈夫です」 香穂子がきっぱり言い切ると、吉羅の表情はより厳しく、氷のようになった。まるで、香穂子の言葉を、その冷たい刃で引き裂くようだった。 「----若さに過信するもんじゃない。君が体力的に無理をしているか、していないかは、私が判断する。失礼」 吉羅は静かなため息を吐くと、速やかに立ち去る。香穂子はその姿を見送ることしか出来なかった。 放課後、香穂子は今朝の出来事に少し複雑な気持ちになりながら、理事長室に向かう。 理事長室に向かうと、吉羅が相変わらず、様々な書類の処理を鮮やかに行っているのが見えた。 吉羅のほうが、よほど体調を気にせずに激務をこなしているのではないかと、思わずにはいられない。 「吉羅理事長」 「では、前回の復習。ボーイングの基本を行いたまえ」 「はい」 香穂子はヴァイオリンを構えると、ずっと取り組んでいるボーイングの基本に集中する。 吉羅はそれを不機嫌な表情で見ていた。 ずっと指を動かしすぎているからか、一瞬、指先に痺れるような感覚が来たか、かまわずに指を動かす。 基本が弾き終わり、ちらりと吉羅の表情を伺うように見ると、相変わらず冷徹なままだった。 「では、基本の曲を。チャイコフスキーのメロディ」 「はい」 ヴァイオリンの基本が出来ていないと弾けない曲であるせいか、香穂子は一瞬指先を震わせる。 ----吉羅に今までの成果を計られている。 そう考えると、指先まで緊張してしまい、上手く指捌きが出来ない。 上手くやろうと意識すれなするほどに、動かない。 焦れば、焦るほどに、更に指先の動きがぎこちなくなった。 「----そこまで」 吉羅のナイフのように鋭い声が部屋に響き渡り、香穂子の背筋と気持ちを糺す。同時に、理事長室の空気がより冷え切った。 「指の動き、音共に、今までで最低だ。今の状態で練習をしても無駄だ」 吉羅はきっぱりと言い捨てると、香穂子を真っ直ぐ見た。 香穂子は唇を噛みしめ、まともに吉羅を見ることが出来ない。 せっかく教えて貰っているのに、緊張だけでここまで崩れてしまうなんて、本当にふがいないと香穂子は思った。吉羅に申し訳がない。 「……!!!!」 俯いているから気づかなかった。 いきなり、吉羅が香穂子の手を取る。 「気分転換をして、リラックスする必要だ。一緒に来たまえ」 「え!?」 怒っていると思ったのに、いきなり手を取られ、そのまま理事長室の外へと連れて行かれた。 強いのにどこか優しさを感じる。 吉羅はそのまま、誰にも見られないようにして、駐車場へと向かう。 車に乗せられて、香穂子は緊張しながらも、どこか嬉しかった。 ヴァイオリンを抱きしめながら、どこか心が温かな気持ちになった。 |