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ヴァイオリンを奏で終わり、顔を上げた瞬間、心臓が止まってしまいそうになった。 あのひとがいる。 ひとときを共に過ごした、かつて愛したひとが。 あの頃と変わらないままで、冷たいまなざしで私を見つめている。 ナイフのように鋭い瞳が痛い。 まるで私を責めるように、あなたは見つめてくる。 本当は私があなたを責めてもおかしくない筈なのに。 どうしてそんな瞳で私を見るのだろうかと思う。 そのまなざしを避けるように背中を向けると、ステージを降りた。 ヴァイオリンコンサート後のパーティなんて、避けたかった。 だが、コンサートはひとりで演奏したわけではないから、行かざるをえない。 なるべく早く帰りたい。 いや帰らなければならない。 香穂子はそわそわしながら、なるべく知人の後ろに隠れるようにする。 背中にあのひとの視線を感じる。 逃げたい。いや逃げなければならない。 香穂子は用心深くパーティ会場を歩いて、なるべく捕まらないようにする。 「香穂、あんた、さっきからもの凄くそわそわしているのが解るよ? 何かあったの?」 音楽雑誌記者としてパーティに来ていた天羽に、心配そうに見つめられた。 「香穂、大丈夫なの? 本当に顔色が悪いよ?」 「だ、大丈夫なんだ。本当に」 香穂子が笑顔を浮かべると、天羽は安心したように頷いた。 「だったら良いんだけどね…。あれ、吉羅暁彦だ…。今や影で日本市場を操っているって言われてる、ヘッジファンドの代表か…。若いのに、何だか鷲っぽい瞳をしているよね。“若き皇帝”か…。だけど女癖悪そうだよねー。だっていつも、スーパーモデル級の綺麗なひとばかり連れてさ。あっ、こっち来た! 取材しないとねー」 「わ、私、お手洗い!」 天羽が吉羅に突撃しているのを横目で見つめながら、香穂子が慌てて化粧室へと向かった。 化粧室に入り、香穂子は大きな溜め息を吐く。 ここなら吉羅の視線から逃れることが出来る。 吉羅暁彦。 香穂子のこころに傷となって残っている名前。 三年前、香穂子は吉羅を愛し、ひとときを共に過ごした。 甘くて溺れるような時間を過ごした後で、香穂子は吉羅に捨てられた。 吉羅は香穂子から冷酷に立ち去ったのだ。 あれ以来、吉羅は香穂子の世界には現われることはなかった。 経済界とクラシック界。 相容れない世界にいて良かったと思ったものだ。 それなのに。こんなにも突然、香穂子の世界に戻って来るとは思いもよらなかった。 香穂子は鏡を見つめながら溜め息を吐く。 吉羅と恋を溺れた頃の子供ではないから。 香穂子は自分にそう言い聞かせて、背筋を伸ばした。 このパーティをやり過ごせば、吉羅暁彦とはもう逢うことはないだろうから。 香穂子は自らを奮い立たせると、会場へと戻った。 香穂子が会場に戻ると、恩師である金澤がこちらに来いと手招きをしているのが見えた。 「日野! こっちだ!」 金澤に声を掛けられて、香穂子は歩みよる。 「お前の音楽活動を是非支えたいと、パトロンが現れたんだよ。経済界ではよくあることだよ。経済人が芸術家を支援するというのはな」 「…はあ…」 香穂子が力なく返事をすると、金澤は誰かを呼ぶ。 「アイツは俺の知り合いなんだ。お前には最高のパトロンになると思う」 金澤の話を聞きながら、香穂子は心臓が止まるような衝撃を受けた。 ゆっくりとこちらに歩いてきたのは、香穂子が避けていた、吉羅暁彦だった。 まるでスローモーションのように、こちらを歩いてくる吉羅は、経済界で成功した者のオーラがあった。 仕立ての良いスーツを堂々と着こなし、シルクのネクタイ、オーダーメイドのカッターシャツを合わせた姿は、隙がなくて素晴らしい。 香穂子は、胸の奥深くに閉じ込めておいた甘酸っぱい感情が顔を出すのを感じながら、歯を食いしばって踏ん張る。 吉羅はあの頃よりも更に魅力的になっている。見つめられるだけで、男の色気に息が止まりそうになった。 「お前さんの音楽家としての自立援助を申し出てくれている。名前ぐらいは聞いたことはあるだろう? 吉羅暁彦だ」 「はあ…」 香穂子は歯切れ悪く頷きながら、どうすればこの難局を乗り越えることが出来るのかと、逆に考えてしまう。 あの凶器に成り得る吉羅暁彦のまなざしから逃れられる女性なんてこの世にいるのだろうかと、香穂子はぼんやりと考えた。 吉羅がゆっくりと香穂子に近付いてくる。 ひとりで堂々と、香穂子を責めるような目をして。 責めたくなるのはこちらのほうだと思いながら、香穂子は対峙するために背筋を伸ばした。 逃げてばかりいれば、あの頃と同じように“子供”だと言って捨てられかねない。 金澤は、吉羅と香穂子の経緯を知らない。 香穂子が短い時間吉羅と男女の付き合いをしていたことを。 香穂子は初で夢中になって吉羅に総てを捧げた。しかし吉羅にとってはゲームに過ぎなかったのだ。珍しい相手に過ぎなかった。 いつも吉羅が付き合う相手とは、香穂子が明らかに違っていたから、面白がって付き合い、飽きたから捨てたのだ。 ただそれだけだ。 香穂子に遺ったのは深い深いこころの傷とほんのりとした未来の光だけだった。 だからもう二度と関わるつもりはない。 関われば、今度こそ自滅をしてしまうことぐらいは、香穂子には充分解っていた。 吉羅がとうとうこちらにやって来た。 以前の香穂子ならば、これはチャンスだと思うだろうが、今はそうは思えなくなっている。 どうしても吉羅の申し出だけは、断るしかないと思っていた。 「吉羅、彼女が話していた日野香穂子だ。日野、こちらが吉羅暁彦だ」 金澤が紹介しているのを上の空で聞きながら、香穂子は慇懃過ぎるほどに頭を下げた。 「日野香穂子と申します。よろしくお願いします」 香穂子は触れたくもなくてひたすら手を前で組む。 「よろしく、日野香穂子さん」 吉羅は冷たい声で言うと、香穂子に手を差し出してくる。 正直言って、握手はしたくなかった。 生々しい想い出が蘇ってくるのが解っていたからだ。 だが金澤の手前、手を差し出さざるをえない。 「…よろしくお願いします」 香穂子は吉羅の顔を一度も見ることがないまま、握手をした。 「……!」 力強く握り締められて、香穂子はうろたえずにはいられなくなる。 まるで掴まえたからもう離さないとばかりに、吉羅はがっしりと香穂子の手を握り締めてきた。 息が出来なくなるほどに苦しい。 香穂子は呼吸を何とか整えながら、握手を続けるしかなかった。 肌を通じて、吉羅の力強さや温もりが感じられて、躰の奥深くが官能的に震える。 思い出したくない甘い記憶が、香穂子の躰から滲み出てきているような気がしていた。 香穂子が離そうとしても、吉羅は手を握ったまま離さない。 このまま香穂子を掴まえておく魂胆だろうか。 ほんの少しだけ甘い気持ちが盛り上がってきて、香穂子はときめきを覚えた時だった。 「吉羅さん」 甘い艶やかな声の持ち主が現れる、香穂子が顔を上げる。 するとそこには、吉羅と一緒にいた、目が覚めるほどに美しい美女がいた。 スーパーモデル風の女性は、吉羅にぴったりなように見える。 吉羅は、香穂子から静かに手を離すと、女性を見つめた。 「ご挨拶をなさりたい方がいるそうよ。少しだけ来て頂けないかしら?」 「解った」 吉羅が離れるのに香穂子はあからさまにホッとする。 「日野さん、後で時間があれば話しましょう。失礼」 「はい」 香穂子は吉羅の広い背中を見つめながら、ホッとすると同時に何処か切なくなってしまっていた。 |