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パーティの間、上手く吉羅を避けることに成功して、香穂子はホッとしていた。 パーティ会場から出る頃には、解放された気分になる。 あれから吉羅は香穂子の側には来なかった。 鋭くも冷たい視線はずっと感じてはいたが、それ以上のことは感じなかった。 香穂子は冷たい視線を送りたいのはこちらの方だと冷たく思いながら、吉羅の視線を何とかはねのけた。 そうしてようやく、パーティが終わり、香穂子は駅に向かって歩き出す。 不意に携帯電話が鳴り、香穂子はニッコリと優しい笑みを浮かべながら、電話に出た。 「もしもし」 「もちもちっ!」 あどけない声が聞こえて、香穂子は思わず微笑んでしまう。 「あきちゃん、良い子にしていた?」 「あいっ! もうおねむだから、バアバアが、おやちゅみって」 香穂子は優しく温かな気分になりながら、思わず電話に頷いてしまう。 「そうだね、おやすみの時間だね。なるべく早く帰るけれど、先にねんねしていてね」 「あい。おやちゅみ」 「おやすみなさい」 香穂子は電話を切ると、ほんのりと温かな気分になる。 毎日、幼子の拙い声を聴く度に、こころのなかが幸せな甘さで満たされるのだ。 携帯電話を閉じても、まだほわほわとした感覚は抜けなかった。 「…先ほどとは、随分と違う顔をするんだね。君は」 刺々しさのある低い声に、香穂子は思わず振り返る。 そこにいるのは、尊大で不機嫌そうな吉羅暁彦の姿だった。 香穂子は吉羅に軽く会釈をすると、再び歩き出す。 「送ろう」 「いいえ、結構です。ひとりで帰れます」 送って貰うなんて本当にとんでもない。 バレてしまう。 今まで秘密にしていたことが。 特に吉羅暁彦にだけは知られてはならない秘密が。 香穂子が無視をするように早足で歩くと、吉羅は着いてくる。 「話がしたいんだよ、私は」 「私には話すことなんて、何もありません」 香穂子はキッパリと言い切ると、更にスピードを出して歩こうとした。 「待ってくれ」 腕を吉羅に思い切り掴まれて、香穂子は躓きそうになった。 「…離して下さい」 「何時から君は、そんなにも礼儀知らずになってしまったんだ?」 吉羅は眉を顰めると冷徹な声で言い、静かな怒りを滲ませている。 「礼儀を欠いているとは思っていません。きちんとお話することもないと言ったはずです。急ぎますから、離して下さい」 「離さないと言ったらどうするかね」 「…そんな権利はないはずです。あなたには…」 香穂子は声を震わせながらも凜としたまなざしを吉羅に向ける。 「吉羅さんも待っていらっしゃる女の方がいるでしょうから、いい加減に話してくれませんか?」 「そんな女はいない」 吉羅は素っ気無く言うと、目を神経質そうにスッと細めた。 「だけど、私は待ってくれている男性がいますから。離して下さい」 吉羅は不快そうに唇を歪めると、香穂子を嘲るように見つめて来た。 「嘘だろう?」 「嘘じゃありません。離して下さい」 香穂子が硬い声で言うと、吉羅はようやくその腕を離してくれた。 不意に香穂子に迷子のようなまなざしを向けてくる。 「…君は相当、私のことを嫌っているようだね」 吉羅は髪をさらりとかきあげながら、切なそうに言う。だがその深い色をした瞳からは感情を読み取ることは出来なかった。 「…当然です。だから、あなたからも申し出は受けないです」 「言い訳すらも許されないのだろうか?」 「その暇をあなたには与えた筈です」 香穂子は強く言い切ると、吉羅に背中を向けた。 泣きそうになったから、背中を向けるしかない。 香穂子は背筋を伸ばすと歩き出す。 吉羅なんてもう何とも想ってはいないと言わんばかりに。 電車に乗り込んで、正直、ホッとした。 吉羅に触れられただけで、あの頃のときめきが生々しく思い出されて、香穂子はくらくらした。 未だに深い部分は吉羅を愛しているのをまざまざと思い知らされたようで、香穂子は平手打ちでも食らった気分になった。 未だに吉羅のことを想うだけで、息が苦しくなる。 棄てられた後、吉羅はきっと戻って来ると夢想していた。 それが違うのだということをようやく気付いたのは、ほんの一年前だった。 吉羅が、美しい女優と結婚寸前だという記事を目にした時だ。 ようやく長い悪夢から目覚めた香穂子は、もう夢なんて見なくなった。 最近では、吉羅との恋は遠い過去のことだと思っていた。いや思えるようになっていた。 だが、再会したことで、それは単なる思い込みであったことに、香穂子は今更ながらに気が付いた。 香穂子は大きな溜め息を吐きながら、吉羅を追い出そうとしたが、全く出来なかった。 家にようやくたどり着き、香穂子は疲れた躰を引き摺るように自室に向かう。 ここには香穂子の安らぎが眠っている。 「…ただいま、あきちゃん…」 香穂子は小さなベッドに眠る息子を覗き込むと、安らいだ気持ちになった。 香穂子の愛しい存在。 この子がいれば何も要らないとすら思う。 眠る息子をじっと見つめながら、本当に父親によく似ていると、思わずにはいられなかった。 少し癖のある闇のような髪も、意志の強そうな唇も…。そして見開いた瞳の深い色も…。 どれを取っても、吉羅の子供であることを象徴している。母親である香穂子の面影を宿してはいない。 此所まで父親によく似る子供は珍しいのではないかと思う。 香穂子は息子の額を撫でながら、切ない甘酸っぱい想いがこころに滲んできた。 妊娠が解った時、吉羅は既に香穂子の前にはいなかった。 伝えるべきだと思い手紙を書いたが、返事など一切なかった。その上、吉羅が教えてくれた携帯電話の 番号に電話をしたが、通じなかった。 吉羅が香穂子に与えてくれたのは、子供だけだった。 中絶するなんてことは、香穂子には全く考えられなかった。 子供を産みたいと思う程に、強く吉羅のことを愛してしまっていたのだ。 今も子どもを産んだことは後悔していない。本当に産んで良かったと、香穂子はこころから思っていた。 だからこそ、今更ながら吉羅が香穂子の世界に現れてしまった時、かなり強い戸惑いを感じたのだ。 また、あの切ない恋心を思い出してしまうような気がしたから。 この秘密だけは、吉羅には知られたくない。 「あきちゃん…ママはあなたを守るからね」 香穂子は我が子の柔らかな髪を撫で付けながら、決意するように言った。 翌日は休みで、香穂子はのんびりとする。 久し振りの休みは、とても嬉しかった。 子供をバギーカーに乗せて、近くを散歩する。 これ以上に楽しいひと時はないと香穂子は思う。 子供に何度も語りかけながら、香穂子は温かな陽射しを浴びていた。 最近、香穂子も仕事がかなり忙しくて、余り息子を構ってやることが出来ない。 だからこそこのひと時は、かなり貴重なものだった。 香穂子が公園に入る途中、フェラーリが山手方向に走り抜けていくのが見えた。 背筋が震える。 フェラーリと言えば吉羅が好んで乗る車だ。 フェラーリを乗っているのが吉羅だとは限らないというのに。 いつもフェラーリを見る度に、吉羅のことを思い出しては震えていた。 香穂子が子どもを遊ばせ、ベンチに腰を掛けて休憩をしていると、不意に長身の影を感じた。 「こんなところで奇遇だね…?」 感情ない声に顔を上げると、そこには紛れもなく吉羅暁彦が立っていた。 |