*秘密*


 吉羅の視線が遠くで遊ぶ息子に注がれる。
 どうか顔を見られませんように。
 香穂子は鼓動を激しくさせながら、それだけを祈る。
 吉羅は確かめるように香穂子の左手を見た。
 結婚指環を探しているのだろう。そんなものはない。
「…確か…君にはお姉さんがいた筈だが…お姉さんのお子さんかね?」
 香穂子は吉羅から視線を逸らすと、俯いた。
 我が子だと言いたい。
 だが言えない。
 香穂子は唇を噛み締める。
「…そのようなものです…」
 今、子供が遠くで遊んでいるのにやきもきしながら、香穂子はベンチから立ち上がった。
「そろそろ時間なので、行きます」
 香穂子は勢いをつけて立ち上がると、バギーカーを子供のところに引いていく。
 見られないように背中を向けて、子供の顔を見せないようにバギーカーに乗せた。
 ルーフで顔を隠し、更に帽子を目深に被らせる。
 顔を見られれば、知られてしまう。
「日野君、君は何時からそんなに頑固になったのかね?」
 香穂子は返事をせずに、バギーカーを引くと、家へと向かって歩き出す。
 もう二度と傷つきたくはないから、吉羅暁彦には近付きたくはない。
 香穂子は先ほどまで苦しかった息を、再び柔らかく始めた。

 どうしてこんなに、何処にでも吉羅は現れるのだろうか。
 今まではそんなことはなかったというのに。
 香穂子が行く会合やパーティには、必ずと言って良い程、顔を出して来る。
 本当にこころから美しいと思える女性を伴っている。
 だからこちらに声を掛けることなんてないはずなのに、どうしてこんなにも近付いて来るのだろうか。
 香穂子は一瞬、子供のことを知られてしまったのだろうか。
 それはない筈だ。
 マスコミには絶対に知られてはいないし、誰もが“姉の子供”や“兄夫婦の子供”だと思っている。
 妊娠している間は、誰にも解らないような場所にいたから、嗅ぎ付けられる心配もない。
 だが、今や日本経済界の中心的存在になってしまった吉羅暁彦が、このようなことに気付かない筈はないのだ。
 外国人も参加しているパーティにも、香穂子は目立たないように端にいる。
「日野君」
 また声を掛けられ、香穂子はうんざりとするように吉羅を見上げた。
 吉羅は獲物を狙う獣のようなまなざしを、向けて来る。
 呼吸がおかしくなりそうだ。
「何でしょうか?吉羅さん」
 香穂子が硬い声でうんざりとしたように呟くと、吉羅は苦笑いを浮かべた。
「君は、何時からそんなに素っ気無くなったのかね? 私と一緒にいた頃は、素直で明るかった筈だがね」
 吉羅は遠い過去を懐かしむかのように、スッと目を細めた。
「日野君、あの頃の君は何処に行ってしまったのかね?」
「…あの時は、子供だったんですよ…。今は大人になりました。女になれば鋭い爪も生えるんですよ」
 香穂子が吉羅を睨み付けると、唇を僅かに歪める。
「暁彦さん」
 背後から艶やかな吉羅を呼ぶ声が聞こえ、香穂子は美しい女性に視線を送る。
「…お呼びですよ。どうぞ行って下さいませ」
 香穂子の言葉に吉羅は頬を僅かに強張らせる。
「言われなくても行く」
 吉羅はシンプルに言うと、女の腰をあからさまに抱いて離れていった。
 香穂子はホッとしながらも、何故だか重苦しい想いに苦しめられる。
 鼓動がおかしくて、どうかなりそうだ。
 未だに吉羅暁彦はかなりの影響力を持っている。
 香穂子は、吉羅はこころと躰に染み付いて、そう簡単には消え去らないことを悟るしかなかった。
 パーティではダンスが始まり、香穂子は壁の花よろしく、関係者との談笑に花を咲かせていた。
「日野君」
 いきなり吉羅に手を握られたかと思うと、ダンスの輪に引っ張り出される。
「吉羅さんっ!?」
「ダンスをしたい。君と」
「私はダンスなんてしたくはないですがっ」
 もがこうとしてもいきなり抱き締めるように腕のなかに閉じ込められた。
 しょうがなく香穂子は踊り始める。
 肌や鼓動がときめき始め、香穂子は心臓が苦しくなる。
「…日野君、私は君の音楽活動に支援したいと思っている」
「お断りをした筈です」
「だが私は諦めたくないがね」
 吉羅は香穂子を抱き寄せると、じっと見つめて来る。
 吉羅の瞳の艶やかで危険なきらめきはとても魅力的で、香穂子は抗えなくなる。
「…素直に受けたらどうかね?」
 頷きそうになる。
 だが、そうしてしまえばまた傷ついてしまう。
 それだけは嫌だった。
「…君は相当、私が嫌なのかね?」
「嫌だって言ったらどうしますか? 私はもうあの頃のような子供ではありませんから」
 香穂子が辛辣なまなざしを向けると、吉羅はやれやれとばかりに溜め息を吐いた。
「かつての君はいるよ。眠っているだけでね」
 吉羅は香穂子の瞳の奥深くにあるものを探し出すようなまなざしをすると、かつて見せてくれたような優しい光を瞳に宿した。
「…あなたなんか嫌い…」
 香穂子はまるで砦を作るかのように言うと、半分涙目で吉羅を見上げる。
「…実に面白いね…君は…」
 吉羅は唇を歪めると、香穂子を愛撫するように見つめた。

 吉羅とダンスが終わった後も、香穂子は小刻みに躰を震わせていた。
 まだ腕に余韻がある。
 あんなにも切ない余韻はなかった。
 パーティが一通りお開きになると、香穂子はそっと抜け出す。
 今夜は我が子に“おやすみなさい”を言ってあげたかった。
 香穂子は足早に駅へと向かう。
 これでパーティシーズンは終わりだから、吉羅とも逢わずに済むだろう。
 香穂子にとってはこれ以上に有り難いことがないのと同時に、何故だかどうしようもないほどの寂しさを感じていた。
 何もいらない。
 息子とヴァイオリンさえあれば。
 本当に何も必要としないのだと、香穂子は強く思う。
 これで幸せなのだと香穂子は強く思っていた。

 ようやく見つけた。
 この3年間、死に物狂いで探し続けた。
 彼女に棄てられたと思われてもしょうがないことをしたのは解っている。
 だが、あの時は仕方がなかったのだと、説明する暇が欲しかった。
 今の香穂子はかたくなだ。
 難攻不落と言っても良い。
 だが何度も彼女には働きかけて、いつか解って貰いたい。
 吉羅は強くこころに誓う。
 香穂子は、この三年の間で本当に綺麗になっていた。
 三年の間に、他に男がいたのではないだろうかと、何度となく思った。
 だが彼女の周りは、いくら調べても男の影はない。
 なのに一緒に住んでいる男がいるとはどういうことだろうかと、吉羅は思わずにはいられなかった。
 香穂子の背中を見送りながら、このままあの華奢な躰を抱き締められたら良いのにと、思わずにはいられない。
「暁彦、行きましょうか」
 今日付き合って貰った、何とも思っていない相手に相槌を打つ。
「ああ」
 かつてならはこのような美しい女を連れて歩くのが好きだった。
 だが今はどうだろうか。
 全くそんな気分にはならない。なれないと言ったほうが正しいだろう。
 吉羅は女をエスコートすると車に乗せる。
 かつて香穂子が座って笑っていたシートに腰を下ろす。
 香穂子にしか許したくはないのかもしれない。
 いつもここに誰かが座る度に、香穂子の面影を探していたから。
 香穂子に無性に逢いたくなっていた。

 最近忙しくて、少しも子供に構ってはやれなかった。
 香穂子は近くの公園まで息子を連れて行くと、一緒に走ったり歩いたりして遊んでやる。
 陽射しを浴びて無邪気に笑う息子は、日に日に吉羅に似て来る。
 やはり血の繋がりは隠せないと、香穂子は思った。
「…日野君、子守にせいが出るね」
 吉羅の声に、香穂子は心臓が止まってしまうのではないかと思った。



Back Top Next