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吉羅がすぐ後ろにいる。 香穂子は固まったままで振り返ることが出来ない。 吉羅にバレてしまう。 こっそりと彼の子供を産んだことを。 それだけは、何がなんでも避けたかったことだ。 香穂子が妊娠したこと、子供が産まれたことを伝えようとした時も、連絡は一方的に遮断をされたのだから。 望んでいないにちがいない。 だからこそ知られてはならない。 「遊んでいるので、吉羅さんとお話しをする余裕はありません」 香穂子は強張った声で言うと、吉羅を遠ざけようとする。 背中に冷たいものが流れ落ちる。 決して知られてはならない。 知られたくないことであったから。 どうしても隠したかった。 別に認知をして貰いたい訳ではない。 ただ、愛しい息子から引き離されたり、施しのようなことをされるのが嫌なのだ。 「ママーっ!」 何も知らない息子が無邪気な顔をしてこちらに向かって走ってきた。 陽射しに顔を光る。 あんなにも似ているのだから、吉羅は気付かない筈はないだろう。 香穂子は悪い緊張でこのまま倒れてしまいそうになった。 白日に曝された子供の顔を見て、吉羅は息を呑むしかなかった。 自分の幼い頃に生き写しだったからだ。 更にじっくりと見つめると、吉羅家特有の意志の強そうな瞳や、少し彫りが深い優美な顔立ちが解る。 子供の年齢はよく分からないが、恐らくは2歳前後だろう。 吉羅の鼓動が激しくなる。 まさか。 他人の空似にしては、似過ぎているような気がする。 吉羅の予感を的中させるように、子供はよちよちと香穂子に向かって走ってきた。 「ママーっ!」 自分の子供に間違いはない。 いきなりこのような子供を持つことになろうとは思いもよらないことであったが、同時に幸せな喜びがふつふつと湧き上がってきた。 「あきちゃんっ!」 香穂子は子供に手を広げて抱き締めると、暫く動かなかった。 その背中からは母親特有の不安が滲んでいる。 否定されるのではないか。 それとも、取られてしまうのではないかと。 「…香穂子…」 かつて親密であった頃と同じように、吉羅は愛しくその名前を呼ぶ。 「…その子は幾つかね?」 香穂子は答えない。 ただ子供を強く抱き締めているだけだ。 不意に香穂子の腕からひょっこりと顔を出した子供と目が合う。 ニッコリと笑いかけられてしまい、吉羅は胸が突かれる思いがした。 「…君は何歳かな?」 吉羅が屈んで視線を合わせて訊くと、屈託ない笑顔が返ってきた。 「にちゃい」 指で2の数字を突き付けられて、吉羅は頷く。 見た目だけで直ぐに自分の子供だと解ったが、年齢もぴったりと一致する。 疑いの余地など何処にもないだろう。 「…香穂子…。話したいことがある。君に拒む権利はない。それは解っているね」 香穂子は話さなければならないと覚悟を決めたのか、そっと頷いた。 とうとう吉羅に知られてしまった。 遅かれ早かれこうなることは解ってはいた。 だが、こころの動揺は相当なものだ。 なかなか落ち着けるものではない。 今でも呼吸困難で死んでしまいそうだ。 「何処かで食事をしながら話そう」 断る訳にはいかない。 香穂子は胎を括ると、頷くしかなかった。 「行こうか、あきちゃん」 香穂子は子供の手を引き、のろのろと立ち上がる。 吉羅は子供に向かって優しい視線をする。 「君は好きな食べ物はあるかな?」 「んーと、ハンバーグとっミートスパッ」 「だったらそれが食べられるところに行こうか」 吉羅の横顔を見ていると、いつもの冷酷な表情が信じられない程に甘くて優しい。 子供もすっかり信頼してしまっているようだ。 当然だ。ふたりの間には誰にも切ることが出来ない確かな絆があるのだから。 にっこりと素直に笑う子供を、吉羅も好ましく思っているようだ。 だが、香穂子を見る目は相変わらず冷たかった。 「そこに車を停めている。行こう」 「…はい」 香穂子はバギーカーに息子を乗せると、ゆるゆると引いていった。 馴染み深い車が停まっていて、香穂子は懐かしいと感じる。 かつてここに座っては、吉羅と風景を交互に見ていたものだ。 香穂子はバギーカーからシートを外し、それを後ろの座席にセットする。そして横に座った。 「チャイルドシートかね」 「たまに車に乗ることもあるので、チャイルドシートに変わるバギーカーを買ったんです」 「そうか…。私としては君には久し振りに横に座って貰いたかったんだが、難しいようだね」 「はい」 香穂子がキッパリと言い切ると、吉羅は苦笑いをした。 吉羅の車に乗り込むと、かつての切なくて甘い恋心が滲んできて、胸が痛くなる。 もう三年も前のはずなのに、まるで昨日のことのように感じられた。 吉羅は静かに車を出す。 その瞬間、吉羅の運転を見るのが大好きだったかつての自分がそこにいるような気分になった。 「ママー、しゅごいね。このくーま」 「そうだね」 「このくーまの運転手になるっ!」 息子が得意げに言うのが吉羅は嬉しいらしく、ニッコリと微笑んだのがミラーに映って見えた。 「君が運転出来る年齢になったら、運転させてあげるよ」 「ホントっ!? あーとっ!」 息子の無邪気な返事に、吉羅の瞳は益々蕩けてしまう。 こんなにも柔らかな笑みを見るのは初めてかもしれなかった。 「お外しゅごいねー! ママっ、運転見たいっ」 「じゃあ、帰りは見せてあげよう。私の隣に座ると良い」 「ホント! うれち! あーと、おじちゃん」 息子に無邪気に“おじちゃん”と呼ばれたのが、余程こたえたのか、吉羅の頬は僅かにひきつっている。 香穂子は、吉羅が一目で暁慈のことを息子であると認め、直ぐに夢中になっていることを感じた。 「もうすぐ着くから、そこでゆっくりとしよう」 「はい」 いよいよ吉羅との対峙をする時なのだ。 本当は話したくない。 息子を取られてしまうかもしれないから。香穂子は僅かに怯えていた。 吉羅が連れてきてくれたレストランは、かつて泡沫に付き合っていた頃に、よく連れてきてくれた、香穂子が気に入っていた場所だった。 懐かしい場所だ。 ノスタルジーな気分にさせて、香穂子から譲歩を引き出そうとするのだろうか。 香穂子は緊張しながら、レストランの席に着いた。 「ここはお子様ランチというものがないから、好きなものをこの子のために頼んでくれないかね」 「では、ミートスパゲティとハンバーグランチを」 「君は?」 「一緒に食べますから、良いです」 香穂子がつっけんどんに言うと、吉羅はただ頷いた。 注文をした後、吉羅は手を組んで顎の下に置くと、香穂子を捕らえるような鋭いまなざしで見つめてきた。 「…率直に言う…。どうして連絡をくれなかったのかね?」 吉羅はいきなり核心を突いてくる。 だが負けやしないと思った。 「連絡はしました。あなたには知る権利があるかと思って。あなたのオフィス宛に手紙を書いたけれど返事はなかったですし、携帯電話に掛けても繋がらなかった…。…そして、私はあなたが何処に住んでいるかも、プライベートな電話番号も一切知らなかったから、それ以上に連絡を取ることが出来なかった」 香穂子が淡々と呟くと、吉羅は唇を僅かに歪める。その表情は苦虫を噛み潰したようだった。 「…あの手紙がそうだったのか…」 吉羅は溜め息を吐くと、僅かに俯く。 「…読まなかったんだよ。君の名前が封筒に書かれてはいたが、住所は書かれてはいなかった。だが君が書いた文字のように見えた。だが、本当に君かどうかは定かではなかったから…だから私は…、読まなかった…」 吉羅は言葉を選んでいるように思える。 本当のことを言っているようには、見えない。 何かを隠している。 「…とにかく読まなかったのは事実でしょう。だからあなたはあの瞬間にこの子に対する総ての権利を捨てたのよ」 香穂子の厳しい言葉に、吉羅は顔色を変えた。 |