*秘密*


「…今更かもしれないが…、私は彼を認知したいと思っている…」
 吉羅の声は何処か歯切れが悪い。
「認知はいりません。この子には父親は最初からいないんです」
 香穂子は吉羅を鋭いまなざしで睨み付ける。
「だが、私は知ってしまった。将来的に彼が困らないように、援助をしていきたい」
「…援助だけでは“父親”じゃないわ…」
「私はこの子の父親だろう?」
「生物学上はね」
 香穂子の言葉に、吉羅は殴られたような顔をした。
「…今からでも…関わりたい」
 吉羅の瞳を見ていると、こころからそう思っているのだろう。
 例え母親が誰であれ、かけがえのない息子だと思っているのには違いがなかった。
 認知をして貰ったほうが、子供の将来には良いかもしれない。経済的には。
 だが、それだけだ。
 ずっと愛してくれるかどうかの保証もない。現に香穂子は捨てられたのだから。
 ただ経済的に明るいだけで、自分の複雑な出生を知ってしまえば、かなりショックに違いない。
 香穂子が苦しげに目を伏せると、息子が心配そうに見つめてきた。
「ママ…?」
「大丈夫だよ、あきちゃん」
 香穂子はつい、息子の名前を呼んでしまいハッとする。
 父親である、吉羅暁彦の一字を取った名前。愛している人の子どもであったからこそ、その一字を貰ったのだ。
 吉羅の表情が和んで、僅かに柔らかくなった。
「…名前は?」
「暁慈(あきちか)…」
「どう書くんだ?」
「…暁を慈しむ…」
 本当は言いたくはなかったが、直ぐにばれることだ。香穂子は正直に言う。
「暁を慈しむ、か…」
 吉羅は噛み締めるように呟くと、愛しげに息子を見つめた。
「…香穂子」
 吉羅は、かつてと同じように香穂子の名前を呼ぶ。
 夜の闇のように安堵する深みがある吉羅の声で名前を呼ばれて、こころが疼く。
 まるでまだ愛されているような気がして、昔のときめきが戻ってくる。まだ愛されているのではないかと、そんなことすら思ってしまう。
「この子のDNA鑑定をした後、しかるべき手続きを取りたい。私は自分の子供が、父親の顔を知らずに、しかも他の男が義理の父親になるなんて考えられない。きちんと段階を踏んで、結婚をしよう」
 吉羅の事務的で淡々とした声が、香穂子の幻影を打ち砕いた。
 DNA鑑定に、けじめを着けるための結婚。
 香穂子はこれ以上に屈辱的なことはないと思った。
「あなたとは話し合う余地すらもないです。この子は私だけの子供です。あなたには関係ない。…不本意にも…、知られてしまったけれど…、あなたは今後もあなたらしい人生を送れば良いの」
 香穂子は、唇も背中も震わせながら、吉羅を涙目で睨み付ける。
 だいたい香穂子を簡単に棄てられるような男なのだ。
 連絡をしても返事をしない。
 そして、役立たない電話番号を教えるような男なのだ。
「帰って構いませんか?」
 香穂子が立ち上がろうとすると、吉羅はすかさず手を強く握って来た。
「…ここに居なさい」
 窘めるように謂われ、香穂子は唇を噛みしめる。
「---私は…二度とあなたに逢いたくないです。だから、たとえ数秒だろうとも、同じ空気は吸いたくないの」
 拳が白くなるまで握りしめると、香穂子はかたくななまなざしを向け、吉羅の存在総てを否定する。
 吉羅は溜め息を吐くと、困ったように首を横に振った。
「私は合理的に素早くことを進める方法を言ったまでだよ。この子が私の息子であることは解っている…。その顔を見れば…。…だが、私の周りには厄介な親戚が多くてね。きちんとした証拠を示さなければ認めないんだよ。そのために鑑定は必要だ。だから鑑定はいる。そして、子供が健全に育つためには、きちんと両親が揃って居る方が良い」
 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を感情がない深みのあるまなざしで見つめてくる。
 屈辱的だと、香穂子は思った。
「子供のためなら、独身主義も曲げられると言うのね」
「そうだ」
「仲の悪い両親、愛し合っていない両親が親のほうが、子供は余程不幸だわ」
 香穂子は吉羅を牽制するように見つめたが、表情は全く変わらない。
「香穂子、愛し合うのならば結婚した後も出来るはずだ。かつて私たちは深く愛し合っていたのだから」
「肉体的にね…。かつてあなたはそう言ったわ。精神的な愛を言っているの。愛し合うのは義務で出来るものじゃないのよ」
「…出来る筈だ。君がかつて私にくれた温かな感情を向けてくれるならば…」
 吉羅の試すような静かな声と瞳に、香穂子は鼓動が痛くなる。
 かつてどうしようもないほどの深さで吉羅を愛した。
 だがそれは過去の話だ。
 もうあの頃と同じように吉羅には恋をしていない。
 香穂子は真っ直ぐと吉羅を見つめると、首を横に振った。
「…私は愛情のない家庭で息子には育って欲しくはないんです。そrが最大の不幸だわ」
「私もそう思う。だから、またあの頃のように愛し合えば良い」
 吉羅は何でもないことのように言うと、香穂子が抗えないような魅力的な瞳を向けてきた。
「…私たちはもう昔とは違うんです。それにあなたは肉体的な愛情だったと言ったでしょう?愛し合うことなんて出来ない」
 香穂子は硬い声で言い、吉羅を睨む。
 こんなことでしか抵抗出来ないほどに、吉羅は堂々としていた。
「愛なんて信じないあなたが…、この子を愛せるとは思えない」
「この子は、吉羅家の正当なる跡継ぎだ。だから私は手元できちんと育てたい」
「あなたの勝手な考えじゃないっ!」
 香穂子は胃が強張り、いきり立つ。
「…君が、とことんまで闘うというのであれば、それでも構わない。私は様々なルートを使って、父親である権利を勝ち取るつもりだがね」
 吉羅の瞳は低く蠢き、本気であることを香穂子は悟った。
 吉羅が本気になれば、香穂子など直ぐに捻りつぶしてしまえるだろう。
 香穂子はキリリと奥歯を噛み締めた。
 料理が絶妙なタイミングでやってくる。
「…さあ食べよう。話は後だ」
 温かな食事が運ばれてきて、香穂子は溜め息を吐きながら、休戦することにした。
「じゃああきちゃん、ご飯にしようか」
「はいっ!」
 香穂子は暁慈にどれが食べたいかを訊いた後で、食べ易い形にしてやる。
 美味しそうに食べる息子の姿を見ていると、目を細めてしまう。
「美味しい?」
「うんっ!」
 吉羅のまなざしを感じながらも、香穂子は無視をするように、ただ息子だけを見つめた。

 吉羅は、穏やかに微笑みながら息子の世話をしている香穂子が誰よりも美しく思えた。
 不本意な理由で、香穂子が自分の世界から立ち去ってしまってから、吉羅は誰かを愛するという行為が出来なくなってしまっていた。
 付き合う女もいたが、誰として一週間続いた女はいなかった。
 いつも一週間で終わる。
 吉羅が付き合った女性は、誰もとても美しい女性で、絶世の美女という称号が相応しかった。中身のない女性もいたが、知的な女性も沢山いた。
 だからこそ、誰かと続くだろうと思っていたのに、結局は駄目だった。
 これに対して、唯一半年に渡って付き合った香穂子は、美しいが人目を引きつける美女ではなかった。
 だが華奢なのに魅力的な躰のラインや、はにかんだ笑顔、そして誰よりも真っ直ぐで汚れないこころが、吉羅を引きつけて止まなかった。
 あんな騒動がなければ、香穂子は自分の世界にいただろうし、この子を抱き締めることも出来ただろう。
 今更話しても過去の話だ。
 忌々しい三年前の騒動。
 落ち着いて連絡をしようとした時には、香穂子は既に連絡がつかない状態だった。
 携帯電話の番号は変えられていた。
 そして、ヴァイオリンを学んでいるというインフォメーション以外は、吉羅には何も残されてはいなかった。
 あの時、香穂子にきちんと話をしていれば、三人で家族睦まじく過ごせていたのだろうか。
 だがもう過去だ。
 悔やんでもしょうがないのだ。
 今はどうやって三人が完璧な家族になるかを、考えなければならない。
 吉羅はふたりを見つめながら、なんと眩しくて愛しい存在なのかと思った。
 香穂子は本当に子供を愛している。自分をそっちのけで世話をしているのを見れば明白だ。
 吉羅は香穂子の母性の温かさを感じながら、息子が羨しく感じた。
 かつての自分も香穂子の愛を独占することが出来た。
 だがその温かさを欲しがった時には、もう手を伸ばしても届かない存在になってしまっていた。
 だからこそ香穂子が欲しい。
 吉羅は香穂子を手に入れるためなら、理性など捨てても構わないと思っていた。



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